お抹茶のすべて 4 【抹茶(碾茶)の歴史…その2「茶期」「摘採」「製造」「加工」】

読者の皆様、こんにちは。1月号では「宇治煎茶の主産地和束町はいかにして宇治碾茶の主産地になったか?」、2月号では「和束町碾茶の現状」について、3月号では「抹茶の歴史」その1「栽培」「品種」の歴史について書かせていただきました。
4月号は「抹茶の歴史」その2「茶期」「摘採」「製造」「加工」の歴史について書いてみたいと思います。表1は3月号と同じです。

抹茶の歴史と文化 

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3、茶期
茶期は栄西以降昭和55年(1980年)頃までは、全てが1番茶でした。昭和55年頃より愛知県西尾で2番茶の碾茶が生産されるようになって現在に至っています。
1番茶の碾茶が800年以上続いているのに対して、2番茶の碾茶の利用はまだ35年の歴史しかありません。食品加工用抹茶の需要の増加により、京都府においても平成時代になって2番茶の碾茶が生産されだしました。それ以降、2番茶碾茶の生産量は急激に増加しています。
平成26年度の京都府1番茶碾茶の生産量は556トン(61%)で、2番茶碾茶は348トン(39%)です。1番茶碾茶、2番茶碾茶以外に、秋番を原料に使用して碾茶炉で製造した秋碾茶と名付けられた茶があります。しかし、この秋碾茶を粉砕機で微粉末に粉砕した茶を、「……抹茶」と表示して販売しても良いかどうかはまだ決定されていません。
私は、覆い下で栽培された茶葉以外のものを用いて製造、加工された粉末を「抹茶」や「……抹茶」と表示するのには、反対の立場です。

4、摘採
摘採は栄西以降昭和35年(1960年)頃までは、全てが手摘みでした。昭和35年頃より愛知県西尾でハサミ刈碾茶の生産が始まりました。
手摘みの碾茶は現在まで800年以上続いているのに対して、ハサミ刈碾茶の歴史はまだ55年です。しかし、昭和60年(1985年)以降加工用碾茶の需要が増大し、現在では全国の碾茶生産量の内、手摘みによるものは約5%で、約95%はハサミ刈による摘採です。現在のハサミ刈は、二人用可搬型摘採機を使用するものがまだ多いですが、今後は乗用型摘採機の使用が増えてくると思います。

5、製造
栄西以来碾茶の製造は焙炉(ほいろ)による手製碾茶でした。現在手製碾茶の焙炉小屋は残っていません。
焙炉場(ほいろば)は、その部屋自体が乾燥室になっています。室内を高温に保つため、外の光を採り入れる小窓以外はすべて壁土を厚く塗り、柱や天井も壁土で塗り固めます。入口は常時閉鎖され、室内は60℃以上の高温になります。この焙炉場内に設置された碾茶焙炉上で、手作業によって、揉まないで新芽を乾燥させ、碾茶を製造していました。
蒸した新芽を焙る焙炉紙は、揉み茶の助炭のように木枠に固定されていません。焙炉紙の温度は約120度ぐらいになります。手製の碾茶は120度の伝導熱を用いて焙られていました。
手製碾茶が機械製碾茶に変わるのは大正時代です。揉み茶の製茶機械は、明治18年(1885)に高林謙三が緑茶製造機械を考案し特許を得たのをはじめとして、明治中頃から次々と発明、考案されました。
しかし、機械製の揉み茶は品質的に手揉みには遠く及ばず、京都府では粗揉機の後は手で揉むといういわゆる「半機(ハンキ)」の時代が長く続きました。その後、第1次世界大戦(大正3年~4年)による経済的影響を受けて諸物価、労賃が高騰し、労働力不足も相まって、大正中期には余儀なく機械化が促進されることとなりました。栄西以来、大正中期代までの約700年間、焙炉の上で手で焙る手製碾茶であった碾茶の製造も機械化する必要に迫られることになりました。

「以下考案された碾茶機械は、
(ア)竹田式碾茶機械
久世郡小倉村の西村庄太郎と静岡市の竹田好太郎が大正8年(1919)に考案した。府下において6台使用された。二段金網の送帯式であった。

(イ)三河式碾茶機械
愛知県碧海郡高岡村の山内純平が大正9年(1920)に考案した。当初は簡易手送り式であった。京都府にも昭和9年度に18台作られている。

(ウ)堀井式碾茶機械
久世郡宇治町の堀井長次郎が大正13年(1924)に考案した。翌大正14年には9台設置された。昭和3年には風力による吹き上げ給葉装置も考案している。
現在、全国にある碾茶炉は全て堀井式碾茶機械である。

(エ)築山式碾茶機械
紀伊郡伏見町の築山甚四郎が大正14年(1925)に考案した。電熱線を利用した機械であった。

(オ)京茶研式碾茶機械
京都府立茶業研究所の浅田美穂らの考案で、大正15年に一号型が完成実用された。熱源は電熱機であった。
現在、現役で稼働している碾茶機械のうち一番古い碾茶機械は、大正14年に造られた宇治の山本栄次郎の炉であろう。                                 」

昭和に入ると急激に碾茶機械が増加し、それにつれて手製碾茶の製造は全く姿を消しました。それは、揉み茶が手揉み製から機械製に変わってその品質が悪くなったのに対して、碾茶の場合は逆に品質が良くなったことが急激な増加の大きな要因であったと考えられます。
それまでの手製碾茶が伝導熱を利用した乾燥方法であったのに対して、堀井式は放射熱と対流熱の組み合わせで乾燥します。この熱伝導の違いが品質に影響を及ぼしているものと考えられます。
現在はまだレンガ焙炉の堀井式碾茶炉が一般的ですが、新しい乾燥技術をもちいたレンガを使用しない碾茶炉の開発が、京都府茶研、寺田、川崎などで試験、開発されています。

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