【アメリカと日本茶】その2

1.日本茶業はペリーによって始まった。

イ、「泰平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰)、たった四杯で夜も寝られず。」
ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の四艘の軍艦が、国書を携えて浦賀に来航したのは、今から163年前の嘉永6年(1853年)6月3日のことでした。

江戸時代約350年間、鎖国を続けてきた日本は、大田蜀山人の狂歌のように大混乱でした。
「喜撰」とは、宇治の喜撰山周辺、池の尾でとれる煎茶の茶銘です。宇治の池の尾で生産されるお茶が日本一の香りのよいお茶だったのです。
喜撰法師が庵を結んだ喜撰山から、「喜撰」「池の尾」と名付けられましたが、偽物が横行したので、正真正銘の喜撰茶だということで、「正喜撰」「正池の尾」「上喜撰」の茶銘が生まれました。

現在宇治市には、碾茶、玉露の生産はありますが、煎茶の生産はほとんどありません。笠取、炭山など宇治市で本物の宇治煎茶が復活してほしいと念願しています。安政6年(1859年)6月2日、横浜港が開港し、海外との貿易が始まります。産業革命を経た欧米と違い、江戸時代の350年間農業国であった日本が海外に売れるものは、第1に絹、生糸、第2に茶、第3に陶磁器(ジャパン)でした。農民にとって、米以外の、桑や茶が換金作物になることは、非常に魅力的なことで、水田の作れない畑地、荒れ地が茶畑、桑畑に変わって行きました。統計によると明治時代の茶生産量の約3分の2が輸出されています。