【アメリカと日本茶】その4

1.日本茶業はペリーによって始まった。

エ、「揉切り法(もみきりほう)」と「転繰り法(でんぐりほう)」
永谷宗円の創製した「宇治製」は「揉切り法」でした。現在のような木枠助炭は無く、紙助炭の下も竹の渡し棒でした。

ペリー来航以降、茶の輸出が始まり、輸出用の茶が多量に必要になってくると、空中で両手を合わせて揉む「揉切り法」では間に合わなくなってきました。
そこで、宇治では安政年間に木枠の底に焙炉紙を貼った木枠助炭が開発され、竹の渡し棒の代わりに、鉄製の渡し棒が開発されました。これによって、両手を合わせて空中で揉むのに加えて、体重をかけて手と助炭で茶を揉むことが可能になりました。

新芽を蒸すために使用する釜もそれまでは普段に使う平釜を利用してきましたが、安政になって宇治郡木幡村の松尾清之丞の祖父である松尾主膳が底の深い「鶺鴒釜(せきれいがま)」を開発して、豊富な蒸気で長時間蒸せるようになりました。
この鶺鴒釜はボイラーがいきわたる昭和戦前まで使われました。

明治維新前後には、静岡など全国各地の茶産地では「宇治製法」を学ぶため、先進地であったの宇治や近江や伊勢から焙炉師を招いて宇治製法の伝習を行いました。
特に輸出茶の中心地である静岡では明治元年から20年にかけて色々な手揉み手法が興ります。
その手法の中で一番影響の大きかった手法は明治17年、榛原郡川崎町の橋山倉吉があみだした「転繰り揉み(でんぐりもみ)」でした。

明治中期の静岡では20を超える手もみ流派が起こりましたが、大きく区分すると宇治の「揉切り」を主とする流派と静岡の「転繰り」を主とする流派に分かれます。
この色々な手揉み流派を統一しようと試みたのが大林雅也で、明治38年に「揉切り」と「転繰り」を統合した「三十八年式製法」を策定します。

現在全国各地で行われている「手揉み製茶保存会」の手揉み製法の基礎はこの「三十八年式」です。
現在京都で行われている「宇治製法」は、宇治の「揉切り」製法を基礎として、静岡方式の「転繰り」と伊勢水沢村発祥の「板擦り(いたずり)」を組み合わせた製法です。(続きは次回に回します。)