【アメリカと日本茶】その6

1.日本茶業はペリーによって始まった。

カ、日本茶貿易の実態
安政6年(1859年)の横浜開港以降、日本茶はどんどん海外に輸出されて行きますが、この日本茶貿易がどのように行われたのかを見てみましょう。安政以降明治後半までの日本茶貿易は、大部分が所謂「居留地貿易」で、日本人の手による「直輸出(じかゆしゅつ)」はほとんどありませんでした。
すでに、中国、インドや東南アジアに侵出していた外商(外国商人)による貿易でした。

横浜、神戸には居留地が設けられ、米、英、独、などの外商が商館を設けました。横浜居留地に最初に進出したのはイギリスのジャーデン、マゼソン商会で「英一」とよばれました。
神戸居留地ではヘリヤ商会が有名です。日本の茶商は静岡、三重、京都、狭山などの茶産地の茶を買い集め、横浜、神戸の居留地の外国商館へ茶を売り込みます。
外国商館で日本の売り込み商人の茶を審査して買い付ける仕事は、英国人、米国人、ドイツ人などの外国商館主の仕事ではありませんでした。

買い付けは外国商館主に雇われた買弁(ばいべん)=(勘平多=カンペイタ)=(官夫=カンプ)とよばれる清国人(中国人)の仕事でした。横浜、神戸に「お茶場」と呼ばれる茶の再生工場ができるまで、お茶は一旦、香港や上海へ運ばれ、そこで再製加工されました。

買弁が高い価格で買い入れるお茶は、好く乾燥され、細長く撚れて、味の苦渋くて濃いお茶でした。
良く乾燥され、細長く撚れた茶は、再製加工で歩留り(ぶどまり)が良く、太平洋を渡る長期輸送でも変質しにくく、茶箱に多く詰められたからです。また、味の苦渋くて濃いお茶が好まれたのは、米国での日本緑茶の飲み方によりました。
日本の多くの煎茶は永谷宗円創始の揉切製で太くてやや曲がった香りの良い、旨みのあるお茶から、アメリカ向けの細長く針のようにまっすぐ延びた、味の苦渋いお茶に変わって行きました。