機械製茶の歴史 1【明治】

(1)「静岡県茶業史正編」188P(明治15年、1882年)
明治15年多田元吉の紅茶揉捻機。緑茶機械は明治18年高林謙三の緑茶製造機械。

(2)「製茶機械と製茶工場設備に就いて」(浅田美穂)4p(明治25年、1892年)
明治25,26年以来、望月発太郎、臼井喜一郎、八木多作、原崎源作、鈴木藤太郎の諸氏が精揉機、粗揉機、熱風火炉等の各種製茶機械の発明に腐心せられた。製茶機械は手揉み製茶の一部の操作を機械化する方向で発達した。一連式製茶機械も開発されたが区分的機械を組み合わせる方向が主流になる。

(3)「静岡県茶業史正編」155P~(製茶機械創始時代、明治28年~35年)
製茶機械が使用されだしたが、機械が不完全で使用法にも熟達していなかったので、機械茶は評判が良くなかった。

(4)「明治29年、望月発太郎が製茶機械を発明」「茶業雑誌」第35号(明治29年、1896年)
明治29年望月発太郎が製茶機械を発明。

(5)「製茶論」(澤村真)132P、147P~153P(明治29年、1896年)
初期の揉捻機は冷揉み(床揉み)ではなく火炉がついていた。鶺鴒釜は宇治地方が嚆矢。

(6)「静岡県茶業史正編」198P~(明治31年、1898年)
最初の実用機は明治31年特許3301号の高林式粗揉機です。

(7)「機械茶に就きて」御茶の子生「茶業之友」第29号(明治42年、1909年)
明治42年当時の機械は嫩芽には合わず、硬葉に合っていました。製茶機械も良くなかったのですが、それ以上に製茶機械を使う人の心が悪いと云っています。

(8)「製茶器械の取締建議」「静岡県茶業史正編」202p~204p
(明治42年、1909年)
日露戦争(明治37年、38年)以降の日本では物価が高騰し労賃も著しく騰貴しました。茶業界でも生産価格の低廉の為に手揉製茶から機械製茶に移行せざるを得なくなりました。機械製茶が始まると、製茶機械が不完全な機械が多かった事、機械の使用方法に熟練していなかった事などから、粗悪濫造製茶が横行しました。明治42年(1909年)に中村圓一郎、原崎原作等は製茶器械の取締を建議しました。

(9)「日本茶業と製茶機械」静岡 WK生「茶業之友」第35号(明治43年、1910年)
明治30年頃に稍見るべき機械が1,2台発明されたが、その後10余年は低次発明が20余続いた。裾茶が売れる為に機械製茶は流行しているが、品質を度外に置いた機械の乱発は茶業発達の妨げである。

(10)「製茶機械使用者に告ぐ」「茶業之友」第36号(明治43年、1910年)
初期の粗揉機の揉捻部には鉄、瀬戸引、亜鉛板などが使用されていました。

(11)「製茶機械試験成績」「茶業之友」第37号(明治43年、1910年)
明治42年、粗揉機の比較試験が行われました。参加した粗揉機は17種で、平均成績では、一位高林式、二位八木式です。

(12)「茶事小言」潮山迂人(鈴木孫太郎)「茶業界」第5巻第8号(明治43年、1910年)
製茶機械創成期の裏話。機械を製作し、販売し、使用する者の思想があまりにも我利我利的に向う見ず的であった。

(13)「製茶機械の合同」高木来喜「茶業界」第6巻第1号(明治44年、1911年)
…明治44年、製茶機械(粗揉機)は種類を増加し、60余種にのぼります。製茶機械の合同が話し合われました。

(14)「矛盾多き茶業界(2)」茶里子「自己の長所を捨てて敵と戦わんとする説」「茶業界」第6巻第3号
(明治44年、1911年)
茶里子の説が正しいと思います。昔も今も同じです。中央は、たまに間違った方針を立てます。「競争と云うのは、先方の長所に対し吾の長所を対抗させ、何れが勝つかと、一生懸命に尽力し合うことである。」は大切です。かつて日本でも全国一律に共同化、大規模化、大機械化が推し進められました。頴娃、知覧、牧之原など、鹿児島、静岡、三重の平坦地には良い政策だったのですが、この政策をとった中山間地の茶産地はみんな衰退の道を辿っています。

(15)「一万台の機械」「茶業界」第7巻第7号(明治45年、1912年)
…明治32年、六万戸の生産家に35台であった製茶機械は、明治45年には八万戸の生産家で機械は1万台に増加しました。直接火焔吹込が禁止され熱風火炉に改良されました。

(16)「製茶上の要項…揉捻機について」鈴木孫太郎「茶業界」第7巻第10号
(明治45年、1912年)
明治45年には揉捻機の導入が増加します。揉捻機の長所は硬葉を細くし若しくは撚れた様に見せる事にあります。これが硬葉摘を助長しました。揉捻機を使ったならば形状は目に見えて細く見える様になるけれども、その代償として幾分か色沢を毀損し、香気が失墜することは覚悟しなければならぬ。自ら撚れる力ある嫩芽には不必要です。

(17)「精揉機の応用如何」茶業界主筆 高木来喜「茶業界」第7巻第11号
(明治45年、1912年)
明治32年、始めて印度錫蘭茶が米国へ輸出されました。印錫茶の価格が低廉であるのは一、大組織にして生産及び再製輸出の統一していること。二、進歩せる製茶機械を応用していること。三、気候の関係上、一年数十回の摘採に堪えること等に基づきます。日本は物価が高騰し、生産費が増加し、製茶価格が騰貴し、製茶輸出が減少しています。生産費節減のために精揉機を含む全機械化は時代の要請ではあるが、品質低下にならぬ様に手揉の心持を以て機械を活用しなければいけないと茶業界主筆は云っています。

(18)「茶事雑録」スマ生(鈴木孫太郎)「茶業界」第7巻第11号
(明治45年、1912年)
…粗揉機⇒揉切⇒精揉機から粗揉機⇒揉捻機⇒粗揉機⇒精揉機になりました。


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