機械製茶の歴史 3【大正Ⅱ】

(37)「製茶と製茶機械…粗揉機」 臼井喜市郎「茶業界」第12巻第8号(大正6年、1917年)
臼井喜市郎の粗揉機理論です。粗揉機は茶を捻る機械ではありません。粗揉機に於いて捻れるものは嫩芽に限り、硬葉は中々捻れない。即ち、葉その物に捻れる力のあるもののみ捻れ、捻らるる力のない硬葉或いはヒバエなどした葉は捻れない。

(38)「製茶と製茶機械…揉捻機」 臼井喜市郎「茶業界」第12巻第8号
(大正6年、1917年)
臼井喜市郎の揉捻機理論です。揉捻機は極端に物体を捻り丸め、物を挫くと云う力を持っています。

(39)「製茶と製茶機械…精揉機」 臼井喜市郎「茶業界」第12巻第8号
(大正6年、1917年)
臼井喜市郎の精揉機理論です。精揉機は正しく物を緊捻し、相当の形状を造ります。

(40)「製茶と製茶機械…機械の製茶品質に対する関係」 臼井喜市郎「茶業界」第12巻第8号
(大正6年、1917年)
臼井喜市郎の製茶理論です。蒸らさない様に成るべく速やかに乾し上げることが最も必要な条件です。そこで此の条件を満足させるため多量の熱を用いれば、茶葉の吐出する蒸気を取り去るだけ多量の空気を応用せねばならない。精揉の場合は粗揉に於ける如く空気を無暗に通すことは問題である。

(41)「機械使用法講習会所感」川崎正一「茶業界」第12巻第8号
(大正6年、1917年)
揉捻時間と形状を造る精揉機の時間の短い方が内質が勝っています。機械茶の大欠点は揉み過ぎです。昨年度(平成31年度)より露地煎茶で、揉捻なし、精揉機は錘を掛けない製茶をしていただいています。結果は如何に?

(42)「本県製茶機械の増加」TK生「茶業界」第12巻第8号(大正6年、1917年)
大正6年(1917年)の静岡県では製茶機械が激増し2万台以上になった。特に、揉捻機と精揉機が激増し、益々硬葉摘を誘致して粗大となり、その品位劣下しつつあるのを数字的に表明するものです。

(43)「宇治旅行中の感想」鈴木孫太郎「茶業界」第12巻第11号(大正6年、1917年)
「茶は宇治ならざるべからずとは内地の需要者の頭を離れざる思想です。此の思想を維持せしむるか然らざるかが宇治茶の将来にかかる大問題なり。宇治、木幡は殆んど玉露の製造を以て業とし、傍ら朝宮、池の尾、政所等の煎茶を主とし静岡三重等の茶を従として内地向きの販売を営む。然れども茲に注意すべきは、同地方に製茶機械の浸入することなり。若し機械にして同地方に入ること多しとせば、同地方の特色を損し、覇を全国に唱えるの資を失うに至り、従ってその市場も亦憂うべき地位に立たんか。京都地方茶業上の大問題は如何にして付近地方の手揉製を維持せんかの懸案を解決するにあり。」と鈴木孫太郎は忠告しています。鈴木孫太郎はすごいですね。京都茶業の現状と課題を的確にとらえています。100年も前に京都茶業の現在の地位を見抜いています。

(44)「日本茶輸出百年史」199p(大正6年、1917年)
日本における手揉製茶から機械製茶への発展を促進させたのは、第1次世界大戦です。

(45)「茶事要言」鈴木孫太郎「茶業界」第13巻第7号(大正7年、1918年)
物の売れる時には絶対に改良は出来ません。機械製茶が増加して、川根、狭山、山城の茶は特徴がなくなりつつある。之に反して手揉み時代に品質の悪かった地方の製茶が、機械製茶になって以前より優良になった。

(46)「製茶機械改良の急務」原崎源作「茶業界」第14巻第1号(大正8年、1919年)
機械製は第一、芳烈なる香気と重厚なる風味の欠けている事。第二、形状に於て緊捻を欠き重みなき事。第三、ミルメを完全に揉み得ざる事。の三項が劣っています。

(47)「精揉機製茶にも斯くの如き優品あり」川崎正一「茶業界」第14巻第3号
(大正8年、1919年)
…戦時中我製茶の米国に於いて好況なりし結果、品質の粗悪なる製茶の多額に輸出せられた。機械製茶に於いて、揉捻機と精揉機の間に橋本式や臼井式の葉打機を再乾機として使用するようになっている。

(48)「高林翁を追頌せよ」鈴木孫太郎「茶業界」第14巻第5号(大正8年、1919年)
製茶機械の発明中の発明は高林式、望月式です。

(49)「京都府に於ける玉露と製茶機械の応用」京都府農業技師 川崎正一「茶業界」第14巻第7号
(大正8年、1919年)
京都府に於いて最も古くから玉露製造に粗揉機を使用し、各種の研究をしたのは小山政次郎と築山甚三郎です。大正八年(1919年)当時、玉露製に粗揉機を使用することは議論の余地がない所まで来ていますが、精揉機は研究の第一歩を踏みだした所です。

(50)「案頭雑感」鈴木孫太郎「茶業界」第14巻第8号(大正8年、1919年)
…今迄の機械は只一時に沢山の茶を製すること、硬い葉をたたんで撚ることにのみ意を注がれていた。第一次世界大戦中はどんな茶でも売れたため、日本茶は硬葉摘みになり、製茶機械、特に精揉機は硬葉を処理する考えで造られ、製茶の品質はあまり考慮されなかった。

(51)「今後の製茶方針」鈴木孫太郎「茶業界」第14巻第11号(大正8年、1919年)
形状を犠牲にして、風味を重んずるか、風味を次にして形状の整一を計るか。それらはその原葉に準じ、若しくは時の相場によりて製造方針を定めなくてはならぬ。粗揉機は手揉に近い製品を造ることが出来る。揉捻機は使用法を研究する必要がある。葉打機は葉打用と再乾用で構造を別にする必要がある。精揉機は製茶の形状をつくるが、精揉時間が長ければ長いほど香味が落ちて行く。

(52)「本年の茶業に資せんが為に」静岡県立農事試験場茶業部「茶業界」第15巻第1号
(大正9年、1920年)
大正九年当時の製茶機械各種の評価です。

(53)「本年の茶業に資せんが為に」京都府茶業組合聯合会議所「茶業界」第15巻第1号
(大正9年、1920年)
大正九年の京都府では、粗揉機790台、揉捻機34台、精揉機45台が使用されています。静岡県にくらべて機械化は大分遅れています。山城茶に適する機械は一つもありません。精揉機応用は未だ研究時代です。

(54)「茶業改造論…四、製茶機械の改造」主筆 瀧閑村「茶業界」第15巻第4号
(大正9年、1920年)
製茶機械の理想は一連式製茶機械です。現在の機械中、精揉機は改造を必要とする。「製茶は形を以て売るのでは無い。香味を以て売るべきであるから、形状を整えると共に香味を減ずべき精揉機を使用する事は廃すべきものである。」と云うような議論も一部に台頭してきた。大正時代にも、私と同じ方向で考える人もいたのですね。

(55)「茶事小話」桑原雨蛤「茶業界」第15巻第8号(大正9年、1920年)
精揉機の欠点は無理に形を造ってしまい加減が少しもない点です。

(56)「精揉機使用製茶の香味を上進せしむる方法」 臼井喜市郎「茶業界」第15巻第9号
(大正9年、1920年)
精揉機に関する臼井喜市郎の考察です。精揉機は形状を造る機械にして、品質に至っては未だ理想に達する事は出来ていません。その原因は一、手製に於ける紙助炭の如く、熱量を絶えず透す事の出来ざる金属製の釜内にて操作される事。二、紙助炭は熱気の可透性にして伝熱度低きに、精揉機の釜は熱不可透性にして伝熱度高き事。三、茶の最も嫌う金属と絶えず接触し居る事。四、助炭に比し機内に熱気籠り勝ちなる事。五、手製に比し茶の含む熱度が絶えず高き事です。事情の許す限り若上げして、最善の乾燥方法をとれば品質を保たすことが可能です。

(57)「直言録」鈴木孫太郎「茶業界」第15巻第10号(大正9年、1920年)
…味と形状とは一致し、色と香気とはやや一致点があるが、香気と形状との一致は困難。味と形状には力を、香気には熱と換気を、色沢には換気を殊に必要とする。摘採鋏の善用、粗揉機の改造、揉捻機の使用停止、再乾機の改造等により、茶の品質は良くなる。

(58)「本年の茶況に鑑みて」山下伊太郎「茶業界」第15巻第11号
(大正9年、1920年)
…大正九年当時、製茶機械は輸出向きの良く揉み、硬葉に形状を付する機械が多く設備されています。

(59)「機械使用時間と品質の関係」鈴木孫太郎「茶業界」第16巻第2号
(大正10年、1921年)
…精揉機の使用時間の少ない製茶の方が香味の成績が良い。


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