機械製茶の歴史 6【大正Ⅴ】

(97)「朝宮茶と静岡茶」平尾光次郎「茶業界」第19巻第4号(大正13年、1924年)
玉露は宇治、貿易茶は静岡、煎茶は近江、之れ日本茶の三幅対である。朝宮茶の大部分は峠越しに山城へ出て宇治茶に化ける。賢き宇治の商人は調合其当を得て、店の名も売り金も儲けて居る。即ち宇治茶の看板の裏には近江茶が潜んでいるから、宇治茶と盛衰を共にする運命にある。

(98)「大型機械」「静岡県茶業史続編」293p(大正13年、1924年)
製茶機械は能率を上げるため大型化されてき、茶の品質がさらに低下して行った。

(99)「本府茶業に於ける機械研究改善の要義」田邊貢「京都茶業」第6巻3号
(大正13年、1924年)
京都府立茶業研究所は大正14年3月15日(1925年)に宇治若森に設立されました。初代所長は田辺貢です。製茶機械は専ら静岡に於いて考案製作されたものです。静岡の製茶機械は品質よりも能率に重きを置いています。高品質を目指すべき宇治に千八百台の静岡製の製茶機械が導入され、山城茶の名声が失墜しています。静岡に於ける機械の研究は将来も品質より能率主義に進む立場にあるので、京都は直にそれを利用できない。京都府は独自の原料と販路とに適応せしむべく機械の応用と改善上一段の工夫を要する。玉露の如きはその本質とすべき香味を失いつつも徒らに外形の整美に捉われ生産費を増高し、不引合いを唱えられる現状にある。

(100)「今は改革の時なり」鈴木孫太郎「茶業界」第19巻第9号(大正13年、1924年)
現在の処では硬い葉を如何にして揉まんかと云うことに機械製作者の頭脳を支配した思想であって、生産家も亦硬い葉を揉むことを以て能事としていた。日本茶は機械使用者の無理解と、中間商人の煽動に基ずく不良製法の為に品質を低下することが少なくなかった。

(101)「機械製茶法」国立茶業試験場(大正14年、1925年)
我が国で最初に発表された国立茶業試験場の「機械製茶法」です。製茶機械の発達は手揉製に比して著しく生産費を低減して我茶業の経営を有利に展開し斯業に一大革新を来したるも、其一般製品は概して品質不良にして市場に於いて批難多きは大いに遺憾とする所なり。

(102)「機械製茶法」国立茶業試験場(大正14年、1925年)
これまでの機械製茶法=「輸出向き製茶」=「形状本位」=「蒸度と粗揉を控え、揉捻、精揉に重きを置く」から、「本機械製茶法」=「内地向き製茶」=「内質本位」=「蒸度、粗揉を十分にし、揉捻、精揉を短縮する」に変更する。

(103)「機械製茶法」国立茶業試験場(大正14年、1925年)
機械製茶の品質改善に関する要綱は、昔も今も基本は変わりません。

(104)「機械製茶法 粗揉」国立茶業試験場(大正14年、1925年)
粗揉機は手揉における葉乾(露切り)と回転揉の役割を担います。

(105)「機械製茶法 揉捻」国立茶業試験場(大正14年、1925年)
揉捻機は手揉の回転揉の最後の操作である練揉みに相当する。

(106)「機械製茶法 再乾」国立茶業試験場(大正14年、1925年)
再乾=中揉は手揉製法の揉切に相当する最も重要な操作です。

(107)「売行のいい茶を造るには(四)」鈴木孫太郎「茶業界」第20巻第9号
(大正14年、1925年)
形状は兎に角、茶の風味と云うものは、機械ならば粗揉より再乾迄、手揉ならば葉乾しから揉切迄の間に大体の優劣が定まる。手揉の仕上揉も、機械の精揉機も、形状を伸直させるのと緊捻させる為には必要であるが、余り長く揉むと、風味は却って劣る。内地向の茶に於ては形状の伸直緊捻と云うよりも、色沢の鮮碧、香味の優美を要求するから、精揉機を早出しにした方が有利です。

(108)「売行のいい茶を造るには(四)」鈴木孫太郎「茶業界」第20巻第9号
(大正14年、1925年)
精揉機の錘の掛け方は、最初の錘はなるべく我慢して早く掛けない。色沢風味を主とする場合には、錘の外し方をやや早くして行けば良い。精揉機の持ち過ぎは弊害が多い。精揉機の早出しは弊害もあるが長所も多い。

(109)「売行のいい茶を造るには(四)」鈴木孫太郎「茶業界」第20巻第9号
(大正14年、1925年)
茶の乾燥は隠居焙炉での乾燥が理想的である。

(110)「栗田氏の製茶機」「茶業界」第21巻第1号(大正15年、1926年)
大正14年(1925年)、清水市の栗田重作は連続式製茶機械を完成した。しかし、一台三千円と高価すぎて実用化されなかった。

(111)「緑茶審査法」(続)「製茶品質に現れる事項」平尾光次郎「茶業界」第21巻第5号
(大正15年、1926年)
「水色が金色透明であれば必ず味が良ろしき事になる。」「茶は見るべきものではなく、飲むべきものであるから、茶の資格を定める根底として喫茶上から見た茶の品位が妥当である。」「嗜好品として需要を喚起せしむる手段として、飲み心地良き茶を提供することが肝要である。飲み心地良き茶は金色透明であるから、此の点を信条として進まねばならない。」

(112)「茶業時評」主筆瀧恭三「茶業界」第21巻第11号
(大正15年、1926年)
漢人恵助は「審査するには眼、鼻、口を以てすべきであるが、この中で最も大切なのは鼻である。然るに近来あまり重要でない眼が大事な鼻の代理をして、其善悪を決定するようになったことは良くないことである。」と云いました。審査に於て形状に重きを置くようになってきた現状に警告を発しています。

(113)「狭山茶と機械製」繁田武平「狭山時報」第1巻第2号(大正15年、1926年)
大正元年頃、狭山では機械使用者に罰則を設けて制裁を加えた。品質本位の狭山茶と品質粗悪の機械製とは相いれないからです。第1次世界大戦後は、「機械製は進歩し、手揉製は退歩し一般に優良茶が少なくなった。」大正15年現在、機械と手揉と両々併進して、始めて狭山茶の将来を安全境に導くものであると断言して憚らないのである。

(113)「緑茶製造操作と化学的成分との関係、機械製茶と手揉製茶との比較出村要三郎」「茶業試験場彙報第3号」
(大正15年、1926年)
製造操作中最も著しき変化を受ける成分はエーテル浸出物及び単仁(タンニン)です。機械製茶と手揉製茶の化学的成分の差異はエーテル浸出物と単仁(タンニン)にあります。機械製はエーテル浸出物が少なく、単仁が多くなります。即ち、機械製の方が、香気成分が少なく、苦渋味が多くなります。蛋白質、茶素(カフェイン)、繊維、灰分、可溶分については機械製、手揉製に著しき差異を認めない。

(114)「製茶機械と製茶工場設備に就いて」(浅田美穂)5p(明治~大正年間)
揉茶機械は手揉製を模倣することを念頭に開発発明された。大正8年農林省茶業試験場が静岡県金谷町に設けられ、同9年純機械製で品質の立派なものが出来た。大正14年京都府茶業研究所が専ら機械製茶の研究の為設立された。

 


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