お抹茶のすべて 1 【宇治煎茶の主産地「和束」はいかにして碾茶の主産地になったか。】

1、はじめに、自己紹介
読者の皆様、こんにちは。はじめに自己紹介をします。
私は京都宇治の桑原秀樹です。昭和24年(1949年)京都府宇治郡東宇治町(現宇治市)で生まれ、現在66歳です。昭和48年(1973年)にある事情で大学卒業と同時に家業の宇治茶問屋㈱桑原善助商店を継ぐことになりました。
翌年に父善助が亡くなり、24歳で社長になり現在に至っています。茶業経験は43年になります。
茶の勉強を何もしないまま、茶研の研修や他店での修行の経験のないまま茶業界に入り、また入社2年目で社長になった為にいろいろと苦労をしました。特に苦労をしたのは茶についての知識でした。お茶を一番教えていただいたのは茶業青年団の「茶香服」練習会でした。
茶の勉強も「見て覚えろ、経験して覚えろ」だったので、総合的に茶を学べる機関が必要だとの思いで、平成7年以降は日本茶インストラクター制度の創設に関わりました。
平成25年からは、日本茶アワードの運動に取り組んでいます。その間、平成24年に「抹茶の研究」、平成26年に「お抹茶のすべて」と言う本を書かせていただきました。

平成27年1月号より12回連載で抹茶についてのお話を書かせていただくことになりました。文章力には自信はありませんが、解りやすいように一生懸命書かせていただきますので、どうぞよろしく最後までお付き合いください。


2、「宇治煎茶の主産地「和束」はいかにして碾茶の主産地になったか。」

(1)ハーゲンショック以前
私が茶業に入った昭和48年(1973年)には、京都府ではハサミ刈り碾茶の生産はほとんどゼロで、京都府産の120トンほどの碾茶は全て棚覆い(たなおおい)の手摘み碾茶でした。勿論和束町での碾茶生産はありません。
その当時の私の店での仕入れを見ると、京都市伏見区日野が一軒とその外はすべて六地蔵から大鳳寺までの東宇治地区の生産家からの入れ着け(いれつけ)でした。入れ着けで入ってくるお茶は全て棚覆いの手摘み碾茶でした。寒冷紗(かんれいしゃ)の二重被覆(にじゅうひふく)も少しありましたが、まだほとんどが昔ながらの本簀(ほんず)でした。
品種はさみどり、あさひが少しありましたが、ほとんどが在来実生(ざいらいみしょう)でした。仕入価格は最低が6千円、最高が1万2千円で平均9千円くらいでした。京都府産碾茶で5千円以下がなかったので、ハサミ刈の安い碾茶は全て愛知県西尾から仕入れていました。西尾のハサミ刈碾茶は3千円台、4千円台が多かったように思います。
昭和50年(1975年)の京都府碾茶生産量は119トンで、宇治54トン、城陽24トン、八幡17トンが主な生産地でほとんど全てが棚覆い手摘み碾茶でした。
京都府でハサミ刈碾茶が増加し始めるのは昭和60年(1985年)頃からです。この同じ昭和60年より三重県でのモガ生産が本格化します。京都府で価格の安いハサミ刈碾茶が始まり、三重県でモガ生産が本格化するということは、この昭和60年頃に抹茶業界に価格の安い抹茶の需要が増加し始めた事を表しています。ちなみに緑茶缶ドリンクの発売開始はこの3年前、昭和57年(1982年)のことです。
また、昭和60年を境にして緑茶の利用形態が大きく変化しました。今から40年前の昭和50年(1975年)の全国茶生産量は約10万5千トンの内で、ティーバック、抹茶、粉末で利用されるのは5千トンで残り十万トンは葉っぱ(リーフ、急須)で利用されていました。現在では、約8万トンの生産量の内、ドリンク(液体)で3万トン、ティーバックで1万トン、粉末と抹茶で1万トンで、葉っぱ(リーフ)での消費は3万トンでしかありません。
昭和60年に宇治田原町で碾茶生産が始まりました。宇治田原は元々宇治製煎茶(青製煎茶)発祥の地で宇治煎茶の本場であったのですが、戦後はかぶせや玉露の生産も増えていた地域です。
昭和63年(1988年)には両丹(りょうたん)で碾茶生産が始まりました。両丹地域は明治の茶輸出時代に茶園の増加したところで、戦前は煎茶、戦後は両丹玉露と言われるハサミ刈り玉露の生産に力を入れていた地域です。
そしてついに、平成元年(1989年)和束町に碾茶炉が作られました。宇治煎茶の主産地の和束でも、昭和45年頃からかぶせの生産量が増え始めていました。和束に碾茶炉のなかった時代は、宇治や城陽などに生葉を運んで碾茶加工をしている生産家もいました。
平成2年(1990年)の京都府碾茶生産量は213トンで、宇治56トン、城陽46トン、八幡23トン、井手23トン、田辺、田原、両丹14トンで和束は3トンしかありません。京都府全体では、手摘み碾茶とハサミ刈碾茶は半々です。
平成7年(1995年)の京都府碾茶生産量は238トンです。20年前、昭和50年の約2倍の生産量になりました。しかし和束はまだ6トンの生産量です。

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脚注・解説:

①棚覆い(たなおおい)
碾茶の被覆方法は2種類あります。一つは棚覆いで一つは直覆いです。栄西が抹茶法を伝えた鎌倉時代から戦国末期、安土桃山初期までは被覆が無く、碾茶は露地碾茶でした。時期は確定していませんが戦国末期か安土桃山時代に覆いが発明され覆い下碾茶になりました。安土桃山時代から戦後までは全て棚覆いでした。戦後、化学繊維の寒冷紗が開発されて直覆いが増加してきました。直覆いのハサミ刈碾茶を最初に始めたのは愛知県西尾で昭和35年(1960年)頃です。現在、抹茶の被覆方法は棚覆いが約5%、直覆いが約95%です。

②入れ着け(いれつけ)
荒茶の取引方法の一つで、生産者が同じ茶園で生産された茶を毎年同じ茶問屋に納入する
取引方法で、昔宇治の碾茶玉露はほとんどが入れ着けで取引された。煎茶荒茶は茶トンビ⑥による斡旋が多かった。

③本簀(ほんず)
棚覆いの方法で、安土桃山時代から現在まで続いている本式の覆い方法です。茶園にナル(檜丸太)を立て、約2メートルの高さに竹を渡して下骨(シタボネ)を作ります。下骨の上に葦簀を広げ、その後稲藁を振って98%ほど日光を遮ります。現在では本簀被覆は全体の1%もないでしょう。また、本簀でもナルを使った下骨を行っているのは全国でも数軒です。

④モガ
建設費用の高価な碾茶炉を使用しないで、煎茶の製造機械を利用して製造される碾茶様の揉みこみの少ない茶葉をモガという。製造工程は煎茶製造工程から揉捻工程と精揉工程を省いたものである。昭和60年(1985年)頃より三重県で製造が始まった。原料は1茶かぶせや2茶かぶせもあるが、ほとんどは単価の安い露地の秋番である。モガは粉砕機で粉砕され、「加工用抹茶」「食品用抹茶」の名前で単独で、又は抹茶に混ぜて販売されている。