精揉機の魅力(2-1)

「5」手揉手法の進展

永谷宗円の手揉手法は露切(葉干し)と揉切でした。安政年間に木枠助炭が発明され、木枠助炭の下に鉄の渡し棒(鉄橋)と鉄網代が敷かれることによって、焙炉は乾燥する道具から揉んで乾燥する道具に変化しました。次は木枠助炭発明以降の手揉手法の進展について調べます。


(8)「鉄五郎」慶応2年(1866年)
「静岡県茶業史正編」の143Pには、「慶応2年(1866年)、滋賀県朝宮の人にして鉄五郎という人、安部郡清沢村相俣にて製茶伝習を開けり。当時の製法は下揉の中に於いて鉄砲練の如き操作を為せしが、鉄五郎は炉外に出しU字形に揉み込み、仕上揉に於いては揉落しの手遣いを用いたる結果、茶葉の尖端を損傷することなく形状優美なる茶を製造せり。」と書かれています。
鉄五郎は炉外と書かれている通り床揉みを行っています。仕上揉における「揉落とし」は揉切の一種と考えられます。

(9)「伊勢の岩吉」明治元年(1868年)
「静岡県茶業史正編」の143Pには、「明治元年伊勢より岩吉と云える者本県に来たれり。同人は葉揃揉に精巧なりしかば、志太郡岡部町の柴田作次郎氏は其手使い方法を基礎として「片コクリ」の製法をおこなひ、是を伝えんが為に同郡内に伝習所を開けり。転繰製は之を基準として考案せられたるものなりとの説あり。」と書かれています。
伊勢の岩吉の伝えた技法は立手葉揃揉です。南勢流ともいわれる手法で片手を上向きに固定してもう一方の手で前後に茶を揉む揉み方です。静岡では「片こくり」、宇治では「片手まくり」ともいわれます。
この手を順次入れ替えれば「転繰(デングリ)」の手法になります。精揉機の基礎になる手法の一つはは伊勢の岩吉によって明治元年(1868年)に静岡へ伝えられました。伊勢の岩吉が何時ごろ立手葉揃揉(南勢流)を考案したのかは不明です。

(10)「前島平次郎」明治元年(1868年)
「静岡県茶業史正編」の1975Pには、「前島平次郎氏は江州の人、明治維新前大名の荷持御供(本業木挽職)をして掛川宿に泊り、…氏の製造法は揉切製造法にして三つ拾い五手返しをなし製造す。氏の教えを受けしものは、赤堀玉三郎、水野初五郎、漢人恵助、田村宇之助、今村茂平の五人である。…氏は力量人に秀で時により蒸葉三貫匁を一焙炉として平然と製造せり。其製法は露切り・回転揉み・中火揉みを行い、仕上揉みは含み揉みにより仕上げたり。独り製造に止まらず火入れ・篩分け等も巧妙にして、製造法の真髄を極めたり。」と書かれています。
江州平と呼ばれた前島平次郎の教えた揉切製造法は,露切り・回転揉み・中火揉み(揉切)・含み揉みです。宗円の揉切製法の露切、揉切に回転揉みと含み揉みが加わっています。
回転揉みは、本来の揉切が両手で茶を揉むのに対して、助炭と手の間で茶を回転しながら揉む手法です。横まくり、ころがし、ころころ、などと呼ばれます。いわば、揉切の変形です。
回転揉みは茶を助炭に押付ながら揉むので、体重を掛けやすく、揉切よりも楽に操作することが出来ます。回転揉みは今の機械の粗揉機にあたる操作です。
仕上揉は含み揉みを伝えました。含み揉みはコクリと呼ばれ、両手で葉揃えした茶を挟み込み、力を加えながら茶と茶が回転するように揉む手法です。含み揉み(コクリ)は立手葉揃揉(南勢流)とともに、現在の精揉機の働きにあたる手揉手法です。
明治の初め頃に現在の精揉機の働きにあたる手揉手法は伊勢と江州から静岡に伝えられました。含み揉み(コクリ)が前島平次郎の考案になるものか、誰かから伝習を受けたものなのかはわかりません。
前島平次郎の弟子は赤堀玉三郎、水野初五郎、漢人恵助、田村宇之助、今村茂平の五人です。この五人の弟子、孫弟子から多くの手揉み流派が誕生しています。静岡の手揉に一番影響を与えたのは江州の前島平次郎です。

(11)「天下一製法」明治9年(1876年)
「静岡県茶業史正編」の143Pには、「富士郡朝比奈村野村一郎氏は常に改良に腐心し、漢人恵助ほか三氏らに製茶に従事せしめたるが、其方法は生葉一焙炉の投入量を七百匁とし、一日の工程三焙炉を限度とし、最も形状に意を凝らして製造せしかば、形状著しく伸長し風味佳良なりき。……之より「天下一」の名称製茶市場に宣伝せられ、遠近争いて其製法を傚うに至れり。(明治9年、1876年)」と書かれています。
明治9年に天下一製法が始まりました。天下一製法の手法は、葉干し、葉打ち、挫き揉み、練揉み、床揉、玉解、中切揉、(鼓揉)、横揉縦切り、岡揉、横揉み、くくみ揉みという手法で7時間かかります。
精揉機にあたる部分は岡揉、横揉み、くくみ揉みだと思われます。くくみ揉みは含み揉みだと思いますが、岡揉み、横揉みについては分りません。形状が著しく伸長した製茶が得られ高価に販売されましたが、時間がかかり過ぎて経済的ではありませんでした。

(12)「橋山倉吉、デングリ」明治12年(1879年)
「茶業雑誌」第30号(明治29年、1896年)には、「倉開流製茶法に就いて」「橋山倉吉…御承知の通り昔より茶の製造の方法と云うものは区々(まちまち)に分かれております。…然るに明治12年頃、三重県に南製流(南勢流か?)と申します茶の製造法がござりました。俗に是は(チリツケデングリ)と申しまするものでございまする。…それでどうか此の南勢流の長所を採り短所を捨てて、之に十分の改良を加え、色沢香味に変化なく一派の製造法を案出致そうと存じまして非常の苦心を致しました。…其頃富士郡地方にも製茶に(デングり)と云う流儀を採っている者あるを観ました。…三重県の南勢流デングリと富士郡のデングリとを折衷致しまして、是に幾多の改良を加え、一家の製造法を成しました。…何分明治12、3年頃は旧流の揉切が流行しておりまする時分ですから、どうも私の改良製造法も旧流の人には三重県の南勢流同様のものと認識されまして相手にしない。貿易市場に持っていっても一概にデングリ製の茶、色沢香味が悪いと云って排斥される傾向でございました。」と書かれています。
この一文は橋山倉吉の口述筆記です。この一文により、橋山倉吉のデングリは明治12、3年頃に三重県の南勢流デングリ(チリツケデングリ)と富士郡のデングリを折衷改良して出来上がった事が分かります。最初は皆に相手にされなかったデングリ流ですが、揉切製に対して3,4割多く製茶でき、労力も少なくて済むなど経済効率のよい事から徐々に広まり、多くの流派に取り入れられ、輸出向手揉製茶の本流になりました。

 

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