精揉機の魅力

「Ⅰ」はじめに

2021年秋に、静岡県茶業会議所 月刊「茶」の編集部から「精揉機の特集をするので精揉機の歴史について何か書いてほしい。」と依頼がありました。
手持ちの史料を引っ張り出して読み返してみると、「茶業の友」、「茶業界」、「静岡県茶業史正編」(大正15年、1926年)、田辺貢の「茶樹栽培及び製茶法」(昭和9年、1934年)、浅田美穂の「製茶機械と製茶工場設備に就て」(昭和12年、1937年)柴田雄七の「手揉製茶から機械製茶へ」(平成12年、2000年)等々製茶機械について書いてある本、雑誌は多々あるのですが、精揉機に特化して書かれたものは一つもありませんでした。私には手に余る題材だと思いますが、出来る限り資料を集めて書いてみたいと思います。

我が家は元は農家でした。茶と米をしていました。桑原善助は私で10代目です。宇治村の村長をしていた7代目の善助が明治30年頃に茶問屋を始め農家兼茶問屋になりました。茶問屋は私で4代目になります。私が中学1年だった昭和37年まで茶の栽培製造が続いていました。家の前の茶工場には3尺のレンガ炉(碾茶炉)と35k機の揉みの機械がありました。木幡周辺は煎茶の生産は無くて、すべて手摘みの碾茶と玉露でした。玉露の機械揉みの工程に揉捻機はなかったように思います。
五月の製茶時期は焙炉師さんや茶摘み娘さんなど普段は見ない人がいっぱいで、お祭りの様でした。子供は邪魔になるのですがよく茶工場で遊びました。製茶機械の中で一番面白い機械は精揉機です。「ガチャンコ、ガチャンコ」と独特のリズムで複雑な動きが面白く、見ていて飽きない機械でした。
世界のお茶の中で製茶に精揉機を使用しているのは日本だけです。日本の製茶の中でも、碾茶、釜炒茶、グリ茶、紅茶などは精揉機を使用しません。煎茶、玉露、かぶせ茶、刈り直し(番茶)の製造に精揉機を使用します。令和4年現在では、5,6万トンの製茶に精揉機が使われています。世界の製茶量が約600万トンですので、精揉機を使用した茶の割合は世界の茶の約1%です。こう考えると精揉機茶(精揉機を使用した茶)は世界的に見ると非常に特殊な茶、非常に希少な茶であるということが出来ます。精揉機が手揉製茶の仕上工程を機械化したものであるのは誰でも知っています。
ここでは、(一)静岡に伝播した、そもそもの宇治製法(永谷の青製)に仕上工程(精揉機の工程)はあったのか?
(二)木枠助炭が開発されて、焙炉が乾燥する道具から、揉みながら乾燥する道具になったのは何時からか?
(三)手揉製法はどのように発生、進化、変遷したのか?
(四)手揉製茶の工程で製茶を固く細く真直ぐにする仕上工程は何故必要になったのか?
(五)精揉機(製茶機械)は何時ごろ誰が研究考案したのか?
(六)精揉機は何時ごろ普及しだしたのか?
等々について研究したいと思います。

(2023年1月より月刊茶にて掲載開始)


その1 (1月号掲載分)
 「2」永谷宗円、「3」青製、「4」木製助炭

その2 (2月号掲載分)
 「5」手揉手法の進展

その3  (3月号掲載分)
 「6」明治10年代の全国各地の製茶

その4 (4月号掲載分)
 「7」茶業統計

その5 (5月号掲載分)
 「8」米国における日本茶、「9」「明治時代の製茶機械の発展」

その 6 (6月号掲載分)
 「10」「精揉機が普及した時代」、
 「11」静岡県で全機械製が6割を超えた「大正10年(1921年)の式名別機械台数」、
 「12」 「大正時代の製茶機械の進展その1」

その 7  (7月号掲載分)
 「13」 大正時代の製茶機械の進展その2(大正6年~9年)

その8 (8月号掲載分)
 「14」「大正時代の製茶機械の進展その3」(大正10年~大正11年)

その9 (9月号掲載分)
 「15」「大正時代の製茶機械の進展その4」(大正11年~大正14年)


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