精揉機の魅力(3-1)

1月号は「永谷宗円」「青製」「木枠助炭」、2月号は「手揉手法の進展」について調べました。3月号は精揉機が登場するまでの「全国各地の実際の製茶」がどのようなものであったかを調べます。


「6」明治10年代の全国各地の製茶

(15)明治12年(1879年)当時の全国各地の製茶方法が「共進会報告」(葉の焙方、揉方)で判明します。「一番、上林熊次郎「揉み方は炉上に板を横たえ、すでに焙りたる葉を其の上に移し、水分全く去り、粘り気漸く起こるを度として、直ちに揉めば、葉能く緊縮す如し。筵上に移して揉めば風味を失う。但し宇治法の如きは壱円の茶も50銭の茶も同一の手間を要するに因り、計算上に付き甚だしき損あり。」五番、下総国猿島郡、中山元成「蒸したる茶葉を足揉籠に入れ、其温気の去らざるに乗じ、直ちに足を以て踏み搓揉するなり。是れ蠻茶(ばんちゃ)の常にして硬き葉と雖も能く之を柔にするを得可し。釜にて熬り蒸気の起きるに至りて之を蒸すも可なり。」「又、半天と唱ふる法あり。(日光を以て乾晒するもの)この法を用いる時は、乾度十分に達せずして五分に止まるが故に、少し臭気あり。而して濫製の甚だしきに至りては、糊を入れて粘り気を付し、粗葉をして精葉の観を為さしむるものあり。」九番、丹波、浅田直三郎「外国用に供する産物は半天の法を用い、一人筵五枚を引受け、一日に十貫目を乾晒捻搓す。」十四番、三河設楽「之に石膏を投入すれば其の色光沢を生じ、能く緊縮して良葉と為るなり。」「十七番、大谷嘉兵衛「若蒸は其の色青くして美なりと雖も、火を入れるは黒色と為り、熟蒸は其の色赤くして悪しと雖も、火を入れるは鮮色と為るなり。而して、不馴れなる外人は往々此の若蒸を買入れ、再製の時に至りて始めて驚愕する者あり。」番外、多田元吉「初め外人が本邦の茶を買い入れるや、務めて色の美なるものを取りたる。故に、今日に至りても尚其の風を存し、遂に若蒸を売り込むの弊を生ぜしなり。」十七番、大谷嘉兵衛「別に墨染と称する一種の茶あり。此の茶は下総地方の製茶家が、川柳の如き黄色にして混合の用にも為さざる粗葉に灰墨を投じ、蒸して黒色と為したるものなり。」
明治12年(1879年)ころの製法です。全国の製茶法と製茶は種々雑多だったことが分かります。宇治では炉上に板を横たえて揉んでいます。筵(むしろ)で揉めば風味を失うと筵揉(床揉)は行っていません。宇治製法は1円の茶も50銭の茶も同じ手間を要し損であると云っています。下総国猿島郡では足揉籠に入れ、足を以て踏み搓揉すると、手揉ではなく足揉を行っています。又、日光を以て乾晒する半天法も行われています。丹波、越後、上総東金も半天法です。明治12年(1879年)に於ては、全国一律に宇治製法が行なわれていた訳ではありません。その当時、居留地外商の茶の買い方は、色の美しい茶、即ち色の青い若蒸の茶を好んで買い入れました。その為に、日本の売込商も若蒸を売り込む様になり、生産家も若蒸の茶を盛んに製造するようになりました。日本の製茶は外商が高値で買う茶を目指して製造されました。日本人が飲んで美味しいお茶を目指していたのではありません。

(16)上林熊次郎は「日本製茶業に付いての意見」「万年会報告5(11)」明治16年(1883年)、で次のように書いています。「我国製茶の方を見るに一般に宇治の製法に摸せり。夫宇治の製法の精微なる素より言を俟たず。然りと雖、其之を模すべきと模すべからざるとに至っては、論なき能わず。宇治製法は必ず其摘葉に時機あるを以て、一年の事業僅か20日間に過ぎずして、多額を製する事能わず。故に宇治製茶家にて、五反歩の茶園を有する者は甚だ稀にして、一町歩を有する者に至っては、未だ之あるを聞かざる程なり。而して其の製する茶は内国販売にして、上等一斤五円以上の価あるものとす。然るに他の地方の茶は、外国輸出用にして、一斤の価は四、五十銭に過ぎず、宇治製に傚う者は専ら内地の需用に供するを以て目的とし、他は外国輸出を以て目的とし、各自応分の人工を用いる時は、必ず其得る所其費やす所を償はざるの憂を免れん。」
宇治製法は摘葉に時機があるので製茶期間は20日間です。宇治では五反歩の茶園を持つものは稀です。宇治製は内国販売用で、上等は一斤五円以上です。他の地方の茶は外国輸出用で、一斤四、五十銭です。荒茶の価格に10倍の差があります。内国販売用には宇治製法が良いですが、外国輸出用には輸出用に適した製法にすべきですと書いています。上林が書いた通り宇治以外(この当時、山城の製茶の約50%が内国用で約50%が輸出用でした。)では外国輸出用製法が発達します。費用と時間と労力を節約する製法です。


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