手揉み製茶の歴史 2【明治以前Ⅱ】

(8)坂本藤吉(天保8年、1837年)
天保の頃より宇治、江州、伊勢から静岡へ宇治製法が伝播しますがその時の助炭は紙助炭でした。宇治製法の揉み方は揉切でした。大石貞男の「牧之原開拓史考」には、「天保八年(1837)ころ坂本藤吉らが伝えた方法は、新芽を用いた蒸製であること、茶芽を最初からホイロで揉み乾かすという方法であった。もっとも揉むといってもホイロに鉄の渡し棒を使わなかったので竹を渡して助炭をのせ、その上で揉むのである」と書かれ、助炭(木枠助炭)はあったが、渡し棒が鉄ではなく竹だったために強く揉めなかったと解説しています。「静岡県茶業史正編」142Pにおいても、「天保、弘化の交に至り、宇治(志太郡伊久美村坂本藤吉氏招聘)及び信楽(榛原郡上川根村殿岡氏招聘)の人を師として茶葉を最初より炉上にて揉み乾かすことを学べり。当時は炉上に鉄の渡し棒を用いることなく、竹を渡したる上に助炭を置きしものなれば、茶葉を圧搾横転する能はず」と同じ書きようです。しかし、天保年間には助炭(木枠助炭)はまだ無く、静岡に伝えられたのは焙炉紙(紙助炭)だと考えられます。「静岡県駿東郡茶業史」76Pの「助炭使用における当初の製造は、紙助炭にして渡棒は竹の棒を以てし、而も二本にして現今の如く網鉄器等はなし。故に製造中圧力に堪えざる為、揉捻するが如きことは更になく、茶葉を助炭上に於いてヨリキリ揉一切にて揉込み、中途中揚げして床揉をなし、再び投入してヨリキリ揉みにて仕上げたるなり。」の状況が正しいと考えられます。大石貞男も「静岡県茶業史正編」も紙助炭と木枠助炭の違いを考慮していないように思われます。大石貞男も「静岡県茶業史正編」執筆者も木枠助炭が何時発明されたかを解明していなかったと思われます。

 

(9)榛原郡坂部村(安政6年、1859年)
「静岡県榛原郡茶業史」63P、64P「製法は露切りをなし、両手を以て揉み切り乾燥せしめ、形状甚だ粗悪なり。」と宇治製法は露切と揉切だった事が分かります。

 

(10)「木枠助炭の発明」松尾清之丞の「製茶沿革」安政年間(1854年~1860年)
安政年間に宇治で「従前の炉紙を以て製焙するの不便を感じ、初めて助炭と称する、四方郭を木製にし底に厚紙を貼付し乾燥器と為すことを発明し」と木枠助炭が発明されました。よって他府県に木枠助炭が伝えられるのは安政以降になります。又鶺鴒釜も安政年間に宇治で発明されました。
(11)「日本茶貿易概観」48p(安政6年、1859年)外商は清国でもそうであったように、日本の売込商との茶取引や茶の再製をすべて清国人(支那人)のカンプ=買弁にさせました。日本茶を「拝見」=審査し価格を決めるのは支那人のカンプでした。日本の製茶は支那人のカンプが高値で買い入れる茶を目指して行くことになります。

 

(12)「静岡県茶業史正編」527P(安政6年、1859年)
居留外商は中国で行っていたように、日本でも支那人に再製、着色、装箱荷造を行わせます。理由は日本人にはその技術がなかったからです。又は、日本人にその技術を教えたくなかったからです。其方法は釜炒りの支那緑茶の法でした。明治44年(1911年)に米国で着色茶の輸入禁止が決定されるまでの約50年間、日本茶はほぼ着色されて輸出されました。

 

 

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