手揉み製茶の歴史 3【明治初期頃】

(13)静岡における製茶時代区分…
静岡県茶業史正編による静岡県の製茶時代区分です。
静岡県茶業史正編による静岡県の製茶時代区分は、下記のようになっています。

明治元年~明治9年  (1868~1876) 揉切製時代
明治10年~明治16年(1877~1883) 粗製濫造時代
明治17年~明治22年(1884~1889) 改良着手時代
明治23年~明治34年(1890~1901) 静岡製法勃興時代
明治28年~明治35年(1895~1902) 製茶機械創始時代
明治36年~明治44年(1903~1911) 手揉製法、機械製法研究時代
大正元年~大正4年  (1912~1915) 手揉製法統一並精揉機実用時代
大正4年~大正10年 (1915~1921) 機械製茶全盛時代

(14)揉切製時代(明治元年~明治9年)「静岡県茶業史正編」144P
静岡県茶業会議所の時代区分では、明治元年から明治9年までは揉切製時代です。赤堀玉吉は天下一流の開祖。漢人恵助は青澄流の開祖。海野太七は内牧流の開祖。江沢長作は青透流の開祖。松下勘十は開頭流の開祖です。

 

(15)朝宮の鉄五郎(慶応2年、1866年)「静岡県茶業史正編」143P
当時下揉みに於て鉄砲練のような重回転揉みが行われていた事が分かります。鉄五郎は床揉みの揉み方と仕上揉みの揉落しを伝えました。


(16)「伊勢の岩吉の立手葉揃揉」(明治元年、1868年)「静岡県茶業史正編」143P
伊勢の岩吉の立手葉揃揉は片コクリの基礎で、片コクリは転繰製の基準であると説明されています。伊勢の岩吉は手揉製茶で初めて形状を付する事を静岡へ伝えた人物です。と云う事はそれまでの手揉製法である揉切製で揉まれた茶は形状が真直ぐではなかったと云う事です。揉切製法=宇治製法で揉まれた茶の形状は、真直ぐでは無くて自然に曲がっているのが普通と云う事です。


(17)前島平次郎(江州平)「静岡県茶業史正編」1975P(明治初年、1868年)
前島平次郎は永谷宗円の揉切製法(宇治製法)である露切、揉切に回転揉と含揉を加えた江州平揉(揉切製法の一種)を静岡に伝えた。前島平次郎の弟子には、赤堀玉三郎、水野初五郎、漢人恵助、田村宇之助、今村茂平の五人がいて、、その五人の弟子と孫弟子から静岡の多くの手揉流派が誕生しています。仕上揉みに含み揉みを用いたのは前島平次郎が最初です。前島平次郎の教えた…露切り・回転揉み・中火揉み(揉切)・含み揉み…が静岡で発展改良を加えられます。静岡の手揉法に一番大きな影響を与えた人物です。


(18)「女工の哀歌に明け暮れたお茶場」(西村栄之助)(明治元年、1868年)「横浜茶業誌」96p
再製茶をほうじるときは、紺青、黄土、藍青などの色素をまぜ、これにロウを加えて艶色を出したもので、ほんとうに青いきれいなお茶だった。味は日本の緑茶だが、茶の形はみな折れてしまって、さらっとした米粒のような感じだった。


(19)「木枠助炭」彦根藩の製茶図解(明治4年、1871年)
明治4年(1871年)に彦根藩が刊行した「製茶図解」には、鉄橋、鉄網代、木枠助炭の図と解説があり、安政の木枠助炭発明より10年から15年で木枠助炭が全国に広まった事が分かります。安政以前、木枠助炭の発明されていない時代の手揉技術は、①永谷宗円創始の空中での揉切と②永谷宗円以前に行われていた床揉みでの回転揉み、揉み盤での回転揉みと③紙助炭でも行える露切(葉乾かし、葉干し)の三つだと考えられます。


(20)「田村宇之吉の回転揉」(明治8年、1875年)「静岡県茶業史正編」144P
田村宇之吉が回転揉の開祖と書かれていますが、床揉や揉盤での揉み方は回転揉みですし、助炭上での回転揉みは宇治や伊勢、江州でもあったと思われます。また事実、江州の前島平次郎は明治初年に回転揉を田村宇之吉に教えています。田村宇之吉が回転揉みを始めたという説は大いに疑問です。


(21)鉄焙炉(明治9年、1876年)「静岡県茶業史正編」848P~860P
明治9年(1876年)に創造された鉄焙炉は、明治15年頃より使用され始め、日乾製が厳禁されると使用が増加して明治24年(1891年)ころには7、8割が鉄焙炉使用となりました。しかし鉄焙炉は粗製乱造茶の一因になりました。製茶の品質に悪影響を与える鉄焙炉が静岡で普及する理由の第一は、鉄は紙より熱伝導の効率が良い為に紙助炭を使用した時より短時間に製茶出来て効率的であること。第二に紙助炭のように破れるたり焦げたりする心配がなく、高温で製茶でき経済的であることです。鉄焙炉がなくなるのは粗揉機の使用が多くなった大正元年頃です。「茶業界」第5巻第7号(明治43年、1910年)「茶事小言」潮山子(鈴木孫太郎)には、「金属助炭の使用は小組合の組織によって当分の間使用を許すこととなった。之は当局者が或地方の止めがたき事情あるを見ての措置であろうが、余り晴々して決議でもない様に思われる。」と書かれ、明治43年(1910年)になっても鉄焙炉が使用されていたのが解ります。このように明治時代の静岡県に於て盛んに使用された鉄焙炉ですが、その現物は現在どこにも保存されることなく茶業史より消し去られています。


(22)天下一製法(明治9年、1876年)「静岡県茶業史正編」143P
宇治、近江、伊勢などから伝えられた揉切製の時代に静岡で最初に創始された静岡手揉製法は天下一製法でした。天下一製法は下揉み(葉干し、葉打ち、挫き揉み、練揉み、床揉、玉解)中揉み(中切揉、(鼓揉)、横揉縦切り、岡揉)仕上揉み(横揉み、くくみ揉み)という手法で700匁の生葉を7時間で揉みました。スパイダーレッグと云われたように針のような細い形状ですが、滋味は苦渋い茶でした。天下一製はアメリカ輸出用製茶で、明治中頃は高価に売れましたが、大正には安くなりました。針状の優美な天下一製も横浜のお茶場で清国人の指導で再製され、紺青などの色素で着色され米粒状の茶になって輸出されました。天下一製が高価で売れる主な理由は、滋味が苦渋い為に砂糖とミルクを茶に混用するアメリカ人の飲み方に適していたことです。天下一製法では蓆上での床揉みを2時間も行います。そのため製茶時間は7時間で550g~600gの製茶しか出来ず能率の悪い製茶法でした。天下一製のように高値で売れる伸直で苦渋い製茶を、短時間で、多量に、能率的に製茶できる手法を求めて静岡の手揉み技術は進化しました。

 

 

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