手揉み製茶の歴史 5【明治中期頃Ⅱ】

 

(34)「静岡風製茶法の栞」(原田政平)(明治28年、1895年)
原田政平は需要者の好みに合った製法を選ばなければならないと云っています。内地用は宇治風狭山流、外国向けは静岡風製茶法を選ぶべきです。デングリ法は揉切法に比べて3,4割増製できるので効率的で有利です。しかし、この頃の「デングリ」法は揉切法に比べ、香味色沢水色ともに劣ります。

 

(35)「日米両国人製茶嗜好の比較」主香居士「茶業雑誌」第19号(明治28年、1895年)
日本人は清香佳味を好むが、米人は青臭いと嫌う。日本人は香味を重視するが、米人は香気を重視する。日本人は形に頓着しないが、米人は美麗な形を喜ぶ。日本人は水色を重視しないが、米人は清澄黄碧を好む。日本人は茶の色にこだわらないが、米人は緑輝ある物の外は、着色しないと駄目だった。日本の製茶は米人向製茶=形状にこだわる製茶に進みます。この当時、日本人は形状に重きを置かず、飲み味の佳なる茶を択んでいたが、米国人の嗜好が形状、色沢、香気に重きを置くものであったため、又、静岡では圧倒的に輸出向製茶の数量が多かったため、自然と内地用製茶も外国向製茶と同じ形状重視の方向に向かった。そのために、玉露も針のような形状にされ、国内向け煎茶も伸長堅実にさせられた。針のような形状や伸長堅実と云う事は、それまでより香や味が悪くなっているということです。国内向製茶と輸出向製茶がなぜ区別して生産されなかったのか非常に不思議です。紅茶、烏龍茶のように香気が高ければ、伸長性のない形状不揃いの茶でも米国人は受け入れています。

 

(36)「緑茶再製仕様書」「茶業雑誌」第22号(明治28年、1895年)
再製と云うよりは着色です。この着色方法は各居留地商社の秘密にされていたために、日本の茶業者は再製仕上をすることが出来ませんでした。日本人による直輸出が進まなかった大きな原因の一つはこの着色加工にあります。

 

(37)「実験製茶法」(奥宮久平)(明治29年、1896年)
輸出向けは滋味が苦渋でなくてはならない。滋味を苦渋くするために手揉製茶は茶を強く揉む方向に向かいます。

 

(38)「横浜内外茶商懇親会に於ける178番館主プール氏の茶業談話」「茶業雑誌」第32号(明治29年、1896年)
多くの資料の中で、初めての米国人の茶業談話です。日本茶が着色されだしたのは、米国の茶商が下等品に着色して、上等品の価格に販売する事を始めたからです。それまでの支那緑茶が着色されていましたので、儲けの為に日本茶にも着色を考えるのは自然のことと思います。自己の目先の利益の為には、消費者の事も、生産者の事も考えないという行為は、哀しいかな、昔も今もズーーと続いています。明治29年に着色をやり始めた外商本人が着色禁止を訴えていますが、実際に日本が着色廃止に動くのは、明治44年米国で着色茶輸入禁止令以降です。それ以降も着色はたびたび起こっています。

 

(39)「鉄焙炉使用に対する注意」「茶業雑誌」第32号(明治29年、1896年)
鉄焙炉を用いる時は一、鉄気を含みて水色を悪くすること。二、製茶に鉄焙炉の焦損を来すこと。三、本質を害する為再製後製茶に変化を来さしむること。四、鉄焙炉は粗製濫造を為さしむるものなること。五、外商は先年鉄焙炉製の為に失敗したる跡ありて危惧の念を抱きいることなど様々な欠点がある事を認識しながら、明治29年でも使用は禁止されていません。輸出向製茶は品質よりも、経済性を重視しています。

 

(40)「米国茶況視察談」 日本製茶支配人 海野孝三郎「茶業雑誌」第33号(明治29年、1896年)
安政6年(1859年)に横浜が開港され本格的に日本茶が輸出されだしましたが、その貿易は「居留地貿易」でした。日本人は横浜の外商に日本茶の荒茶を売り込むだけで、火入、乾燥、着色、箱詰などの再製や輸出業務、米国での流通、販売、宣伝などはすべて外国商社まかせでした。海野孝三郎は初めて米国を視察し、消費地米国の実態を知り、三つの改善策を挙げています。第一は新聞雑誌に広告し、小売茶の扱い方を指導すること。第二に日本茶の喫茶法を宣伝すること。第三に牛乳、砂糖の混交をやめさせることです。しかし、日本茶輸入以来30数年間にもわたり日本茶の喫茶法を教えられず、日本茶用の急須も販売されず、牛乳、砂糖の混交を習慣としてきた米国の消費者を教育することは至難でした。

 

(41)「川根茶の動き」「横浜茶業誌」(長島藤一郎)91P、明治年間
針の如き天下一製が高値に売れるようになったので、茶は無暗に形状に重きを置くことになり、ついにデングリ製が大流行を極めました。川根へもこの製法が流行いたしまして、以前の揉切製をなすものは殆んどないようになりました。それもその筈で、入込来る職人は皆地方のデングリ仕込の者ばかり。又買い入れる地方商人は目先の儲けさえあれば何でも構わないというので、誤魔化しに適するデングリ製を好んで買うのでありますから無理ならぬことであった。御承知の通りお茶は味を良くすれば必ず形状色沢が悪い。形状色沢を良くすれば味が落ちるは当然のことです。形状色沢と香味は反比例します。明治時代の川根は輸出向けも多かったようです。

 

 

 

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