手揉み製茶の歴史 6【明治後期Ⅰ】

(42)「茶業家須知」(小島善作)(明治31年、1898年)
明治31年の並物狭山製です。操作は露取(40分)-萬力揉(揉切の一種10分)―揉切(15分)-床揉(30分)-玉解揉切―揉切(15分)-葉揃抜切(揉切の一種)-含揉です。茶を一纏めにして揉む揉み方は含揉だけで、「練り揉み」「デングリ揉み」「板摺り」などがありません。

 

(43)「滋賀県実業要覧」(明治32年、1899年)
明治32年の滋賀県では転繰製は行われていません。旧製と云われる宇治製で香味水色の佳良な茶を生産しているのに、形状が伸びていない点を欠点と指摘されています。静岡県より製茶教師を招いて滋賀県に転繰製を取り入れようとしています。宇治製を廃して転繰製を導入すれば、形状は良くなるが、政所、朝宮の特徴ある香味は薄れてしまうのを分っていないのでしょうか?政所、朝宮の茶も輸出向けの形状色沢の茶にされようとしています。

 

(44)「茶業講話」大林雄也(安部郡役所会議室に於る茶業講話大要)(明治35年、1902年)
輸出用製茶は形状重視です。一般に形状を良くすると香気水色が悪くなってしまう。静岡県の如き輸出を重にする地方で此の形状一点張りで、一時をごまかす手段を取るのは、実に茶業前途のため誤った訳です。大林雄也(36歳)は形状重視を諌めるが、現実は形状重視に走ります。「デングリ」「縁コスリ」「板ゴクリ」は並製経済向の簡略法です。上等茶は揉切と含揉が適当です。仕上げに高い給金を払って下揉に下手な職人を使うのは誤っています。

 

(45)「緑茶製造法試験」「製茶試験要報」(大林雄也)(明治36年、1903年)
大林は下揉が完全ならばどんな仕上げ揉みでも良いが、世間多数の下揉み茶では、炉縁擦(助炭繰)、片転繰揉(片手まくり)、転繰揉は茶の品質を害することが多く、揉切、含み揉が安全と云っています。

 

(46)「関西の板揉み禁止」「日出新聞」(明治37年10月21日、1904年)
明治37年10月21日の「日出新聞」によると、京都、滋賀、奈良、三重で「板揉み」を廃止することが決まりました。廃止の理由については書かれていませんが、関西の茶の品質にとって「板揉み」は良くなかったと考えられます。しかし、京都に於いては板揉み(板擦り)は止められることなく続けられました。その理由は、内質よりも形状(外観)を重視する輸出向製茶の影響が大きいと考えられます。

 

(47)「大林雄也の明治38年式製法」「静岡県茶業史正編」(明治38年、1905年)
明治38年2月本県茶業組合聯合会議所は前年の不況に鑑み、大林雄也氏の出張を請い、原崎原作、中村圓一郎、杉山彦三郎ほかの諸氏を委員として、輸出向改良模範茶、製造方針を協定せしめ、大林技師は明治38年式製法として之を一般に宣伝した。「三十八年式製法大要」…葉振い(二十分乃至三十分)…回転揉(四十分乃至五十分)…玉解き(3分)…揉切(三十分、揉切、揉落し、揚揉)…転繰揉(十五分乃至二十分)…仕上揉(コクリ二手分け一手十分計二十分)大林雄也等は当時静岡県に三十数流派あった手揉製法を纏めて輸出改良模範茶製造法として明治38年式製法を制定しました。決して内地向きではありません。この明治38年式製法が現在の手揉製茶法の基礎になっています。


(48)「静岡県茶業研究会創立」「静岡県茶業史正編」 (明治39年、1906年)
静岡県では明治39年(1906年)に静岡県茶業研究会を創立して製茶法の改良に取り組みました。当時は、川根も宇治も狭山も転繰(デングリ)、板摺り、炉縁揉みを行っていません。

 

(49)「明治41年の宇治製法」(青山勘蔵)「静岡県茶業史正編」163p(明治41年、1908年)
「露切(葉乾)は充分になし、撚り込は徐々に力を加え、始終水心の均一なることに心掛け、粘り気の生じたる時に至りて強力を加え、心水(しんみず)を絞り、水心(みずこころ)の均一を計り、玉解をなし、低手に頻繁に揉切を為すべし。之は最も大切なる操作にして、茶を上乾きせしめざるよう最善の注意を為すべし。」明治41年(1908年)の宇治製法です。現在(令和3年)京都府各地の手揉保存会で行われている「宇治製法」は本来の宇治製法ではありません。1738年に永谷宗円の創始した宇治製法は170年後の明治41年には、この青山勘蔵の宇治製法のようにほぼ同じ手揉手法を守っています。しかし、現在の「宇治製法」には永谷宗円、青山勘蔵の手揉法には無い、伊勢、静岡で開発された茶を一纏めに纏めて揉む揉み方である練揉み、片手まくり、転繰(でんぐり)、板摺(板こすり)が組み込まれています。現在の「宇治製法」は本来の宇治製法と静岡製法、伊勢製法とを合体させて出来上がっています。宇治製法手揉保存会のパンフレットに書かれている手揉手順には「アイセイ」という言葉書かれています。この「アイセイ」が何を意味しているかを保存会の皆様は認識されているのでしょうか?「アイセイ」を漢字で書けば「合い製、合成」と云う事で、この「宇治製法」は本来の宇治製法と輸出製法である静岡製法を合わせたものである。合成したものであると云う事です。現在全国にある各都府県の「手揉保存会」は全国で同じ手揉技術で手揉の保存をを行っています。そして、今行っている手揉技術が最良のものと考えられておられるようです。明治38年(1905年)大林雄也によって提唱された「38年式」や大正4年(1915年)榛原郡茶業組合の「緑茶製造法」で静岡方式の手揉製茶法は完成します。明治38年の「38年式」は輸出向製茶法ですし、大正4年の「緑茶製造法」にも「釜茶向」「籠茶向」と書いてあるように輸出向製茶法です。現在京都でも全国でも行われている「手揉製茶法基準」は明治38年の大林雄也の「38年式製法」と大正4年の榛原郡の「緑茶製造法」とほぼ同じ製茶手法です。今全国で手揉製茶の保存継承に取り組まれている人々がこのことを理解していただきたいと思います。私は気候風土歴史が違う全国各地で全く同じ手揉手法を保存伝承するのは間違っていると思います。この輸出向手揉製茶法を手揉製法の代表として保存継承するのは重要だと思いますが、それと共に大林雄也が「38年式」で全国の手揉手法を統一する時に全国各地で行われていた「宇治製法」「狭山製法」「伊勢製法」「近江製法」や静岡県に起こった三十数流派など、各地方の先人によって其地方で工夫、改良、発展された多様な手揉手法を保存伝承していくことが全国の手揉保存会のもう一つの使命であると考えます。

 

 

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