お抹茶のすべて 10 【「簀下十日、藁下十日」の研究】

読者の皆様、こんにちは。1月号では「宇治煎茶の主産地和束町はいかにして宇治碾茶の主産地になったか?」、2月号では「和束町碾茶の現状」について、3月号4月号5月号6月号では「抹茶の歴史」について、7月号8月号9月号では「抹茶問屋の仕事」について書かせていただきました。10月号では「簀下十日、藁下十日」についてお話したいと思います。
「簀下十日、藁下十日(すしたとおか、わらしたとおか)」の研究


はじめに
宇治には「簀下十日、藁下十日」(すしたとおか、わらしたとおか)という言い伝えがあります。その意味を私は「覆下栽培のお茶は簀下十日、藁下十日の最低二十日間被覆した後で茶摘みを始めなさい。」と教えられてきました。即ち、「二十日間の被覆は必要最低条件であり、十分条件ではない。」と教えられました。皆様はどう理解されていますか?
ここでは、多くの書物ではどう解説されてきたのか。実際の碾茶や玉露の栽培現場と合致しているのかを検証したいと思います。

(1)江戸、明治,大正時代の茶書の覆下栽培の解説
覆い下栽培は、安土桃山時代の宇治では一般的に行われていましたが、江戸時代の農書には覆い下栽培の記述はありません。明治時代に山城国の人が書いた書物をあたると、明治拾二年(1879年)に永谷宗円の五代目の子孫である永谷重賢が著した「製茶手引」にも覆下栽培の記述はありません。しかし、煎茶の茶摘みは「摘み始めより摘み終わり迠の日数、十一日前後に限るべし。」とあり、在来実生で手摘みで手揉みの時代の製茶期間は非常に短かったのが分かります。
明治時代に宇治郡宇治村木幡の東松尾館の松尾清之丞が書いた「製茶沿革」「玉露、碾茶、宇治製煎茶、製造法畧記」には、各茶種の製造については書いていますが覆い下日数のことは書いていません。
今まで調べた中で唯一「簀下…」が見つかったのは明治18年(1885年)に酒井甚四郎が著した「製茶須要」です。
それには「玉露覆いかけの法」として、「碾茶、玉露茶の製法、近来各地にこれを試むるものありといえども、日なお浅くして完全なる製法を得しものはなはだまれなるごとし。その根本たる宇治においては、覆いかくるに『簾下十五日、こも下十日』とは古来伝うるところのあらましなれども、実際は園主の考え斟酌するところによるものなり。およそ簾、こもの長短はいろいろ関係多く、最も緊要なるものとす。
なんとならば、地形、土質の異同、茶樹年齢の年若、肥料の種類、施糞の多寡、気候の寒暖、天気の晴雨、摘芽の遅速、ことごとく香味、色沢および収穫の多寡に関係するものなれば、すべてその他についてこれを実験するにあらざれば確言するあたわず。」と書かれています。
「簾下……」が初めて出てくる書物に、考えもしなかった「十五日」が出てきてびっくりしました。
また、「藁(わら)下十日」とするべき所を、「こも下十日」と書いています。実際には、葦簀(よしず)の上に「こも」を乗せることはありません。酒井甚四郎は三重県の人なので本場宇治の碾茶、玉露栽培を知らなかったでしょうか?明治になると全国で玉露は生産されています。
明治28年(1895年)に高橋橘樹が著した「製茶篇」に明治23年(1890年)の「本邦産茶額府県別表」(農商務省農事調査による)が載っています。それによれば北海道と山梨を除く43府県で玉露の生産があり、全国で56737貫(約212トン)の玉露が生産されています。
そのうち京都が135トンで第1位です。静岡1.8トン、鹿児島3.1トン、東京も2.3トンの玉露生産があります。現在、4,5府県しか玉露生産が無いのに、明治23年に全国43府県で玉露生産があったというのは驚きです。
玉露栽培、製造の技術が京都から全国に広まったのと同時に、「簾下……」という言葉も伝わったものと思えます。また、その頃宇治で「十日」ではなく「簾下十五日、藁下十日」と言っていたフレーズが、言い易い「十日、十日」に変化したのかもしれません。

 

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