お抹茶のすべて 5 【抹茶(碾茶)の歴史…その3「流通」「用途」「碾茶生産量」】

読者の皆様、こんにちは。1月号では「宇治煎茶の主産地和束町はいかにして宇治碾茶の主産地になったか?」、2月号では「和束町碾茶の現状」について、3月号4月号では「抹茶の歴史」の「栽培」「品種」「茶期」「摘採」「製造」「加工」について書かせていただきました。
5月号は「抹茶の歴史」その3「流通」「用途」「碾茶生産量」の歴史についてお話したいと思います。表1は前号と同じです。

抹茶の歴史と文化
表1

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7、流通
栄西の時代より大正時代まで700年間、抹茶の流通は碾茶(薄葉)の状態で流通していました。抹茶の形で流通し始めるのは、抹茶が機械臼で挽かれるようになった大正時代からで、戦後は全て抹茶での流通になり、碾茶での流通はほとんど全て姿を消しました。抹茶を缶詰にして販売することを考えだしたのは久世郡小倉の小山政次郎で、昭和の初期のことでした。抹茶、碾茶の技術革新の多くは山政によって成遂げられています。山政の茶業革新の第1は茶の冷蔵保存です。
荒茶を冷蔵庫に保存することによって品質低下を少なく出来ることを知り、山政、北川、山利が茶専用冷蔵庫を日本で初めて建設しました。第2は抹茶機械臼を低温、低質の冷蔵庫の中で挽くことによって長時間連続して使用することを可能にしました。第3は上記の抹茶を気密缶詰にして販売すること。第4は平野甚之丞と共に品種改良に取り組み、「さみどり」などの碾茶品種を生み出しました。これらは戦前のことです。第5は抹茶業界で最初に粉砕機を導入しました。第6は現在は日本一の碾茶産地になった宇治煎茶の主産地和束町に平成元年第1機目の碾茶炉を作らせたのも山政でした。(パイオニア山政に感謝です。)

8、用途
栄西より大正時代までの抹茶の用途は、ほぼ「茶の湯」利用に限られていました。大正時代になって、和菓子や宇治清水や宇治アイスなど他用途への利用も少しづつ始まってきました。
昭和に入ると、抹茶の軍需利用研究が始まりました。簡易碾茶機械の開発、ボールミル粉砕機の研究、秋番茶の利用研究、抹茶錠の開発研究など抹茶が軍需に利用されました。戦後において抹茶の多用途利用が拡大するのは、昭和60年(1985年)頃からです。茶道用抹茶は減少または横ばいですが、抹茶ラテ、抹茶ミルクなど飲料用、和菓子、洋菓子、チョコレート、など菓子用、抹茶ソフト、抹茶アイスなど冷菓用として加工用抹茶の用途が急増しだしました。特に平成8年(1996年)のハーゲンダッツショック以降の抹茶の多用途利用の伸びは急速で、日本国内のみならず、海外への伸びが著しくなりました。
どれだけの抹茶が茶筅で点てて飲まれているのかの統計もありませんが、茶業者の推計によれば150トンから200トン位が茶道用抹茶であろうという事です。よって、残りの3800トンから3850トンが食品加工用抹茶です。抹茶の5%が茶道用で95%が食品加工用として使用されていることになります。
世界の茶生産量530万トンから見れば4000トンの「抹茶」は0.1%にもなりません。私は世界の食品加工用抹茶としての需要は、世界の茶生産量の1%の5万トンにできる可能性はあると見込んでいます。しかし、日本茶の海外進出とっては農薬問題と価格問題が大きな障壁になると思います。

 

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