お抹茶のすべて 5-2 【抹茶(碾茶)の歴史…その3「流通」「用途」「碾茶生産量」】

9の1、碾茶生産量と抹茶生産量の推移

表2

*クリックすると別画面で拡大表示されます。

表2は各時代別の碾茶生産量と抹茶生産量の推計です。
栄西の鎌倉時代以降南北朝、室町、戦国、安土桃山、江戸時代まで、日本における碾茶生産量の統計史料はありません。よって、明治以前の碾茶生産量は、茶園面積と反当り生産量からの推計(筆者)です。明治以降の碾茶生産量は全国茶累年統計表と京都府統計書によりました。

「歩留り」
(1)葉売りと挽売り 
我が国の抹茶生産量の推移を考察する上で、碾茶の仕上げ歩留りをいくらに見るかということは非常に重要な問題です。なぜなら、碾茶の歩留りは、栽培方法、摘採方法、摘採期、販売方法(葉売り、挽き売り)によって大きく異なるからです。
昔は、碾茶を葉っぱの状態で消費者に売っていました。これを「葉売り」と言います。抹茶は、点てて飲む人が碾茶を購入し、自ら茶臼で挽いていたのです。栄西の時代から大正時代までの約700年間は「葉売り」の時代でした。「葉売り」から「挽売り」への移行期の出来事は、

明治30年代半ば、店頭では五人ほどの年輩の女性がずらりと並んですわり、臼をまわして抹茶を挽いた。明治末期になって升屋は機械化に成功した。人力車の輪からヒントを得て、下からベルト回しで回転させる方式を発明し特許をとったものだった。これを39台設備し良質の挽茶を大量に製することができるようになった。<升半史話>

明治45年(1912)に、茶臼を回す動力源として電動機が使用され、特許を得ている。<「京都茶業」第2巻第2号> 

大正2年(1913)には、宇治発電所が送電を開始し、中村藤吉は特許中村式挽茶機を電力で動かしている。<宇治市史第4巻>

それまで「御濃茶(掛目拾匁ニ付)」「御薄茶(百六拾目壱斤ニ付)」と「葉売り」しかなかった名古屋の升半茶店の「御茶銘価表」に初めて「御挽茶(挽料トモ拾匁ニ付)」が現れたのは、大正6年9月1日(1917)のことであった。<升半茶店史資料編>

昭和の初期、「小山政次郎は、冷蔵庫室内で碾茶をひくことを考案している。……彼はなおも抹茶を長期保存する方法について研究をすすめ、気密缶詰にして出荷することなども行ったが、これが現今のように碾茶を挽いて出荷するようになった最初のことであった。」<宇治市史第4巻>

以上のように、大正時代から昭和の初期にかけて、「葉売り」は「挽売り」へと移行していったのです。
「葉売り」と「挽売り」の碾茶の仕上げの差、歩留りの差はどこにあるのかを推考してみます。
筆者は昭和24年生まれなので、「葉売り」時代の碾茶の仕上げを知りません。古い資料をあたっても、碾茶の栽培、製造については記されていても、仕上げや歩留り、合組について書かれている資料は数少ない。

(2)「共進会申告書」
そのひとつに、明治16年第2回製茶共進会に出品した上林春松氏の「申告書」があります。<上林春松家文書>

表3  (共進会申告書による碾茶製品)

表3によれば、歩留りは濃茶、薄茶を合わせた32.4%で非常に少ない数字です。共進会への出品茶仕上げであるからこの歩留りをこの当時の歩留りとするのは誤りです。現在と比較すると、折物の10.3%は納得のいく数字であるが、粉末吟屑の57.3%はあまりにも多すぎると考えられます。
 

(3)「濃茶解説書」
もうひとつ、上林三入家文書に明治22年9月の「濃茶解説書」があります。
「濃茶解説書」には碾茶の仕上げが書かれています。それによると「摧折選方ハ、三四五六七八ノ篩ヲ用ヒテ各篩ヒ分ク(但八番ノ下ハ焦香アルニヨリ除去ス)三段共ニ黄色ノ茎葉ヲ選リ去リ、再ヒ前ノ如ク篩ヒ分ケ、三段共ニ箕ヲ用ヒテ簸シ、変色ノ茎葉ヲ選去リ、弐番ヨリ八番迄、各篩ヲ用ヒテ順次ニ摧折ス、后チ九番十一番十三番十七番篩ヲ用ヒテ、五段ニ篩ヒ分(但十七番ノ下ハ泥粉ナリ依テ除去ス)、各一段毎ニ緑茎ヲ抜キ去リ、緑茎及斑変ニ也ノ葉等ヲ精選スル事再三、但シ初メヨリ撰上毎ニ必ス煉炉ニ入、能ク乾燥シテ、古信楽古丹波及古錫等…」とある。
このなかで、(但十七番ノ下ハ泥粉ナリ依テ除去ス)に注目したい。現在の碾茶仕上げにおいては、17番下、あるいは20番下を泥粉として除去することはありません。
ドン骨、折、選り屑以外は、すべて臼で挽いて抹茶にします。これに対して、「葉売り」では、泥粉は商品にならなかったのです。17番下を商品にするのとしないのでは、歩留りに一割の差がでると考えられます。

(4)「葉物」
 明治、大正時代の定価表<升半茶店史資料編など>をみると、現在の煎茶と考えられる茶のほかに、「御煎茶」の種類で「玉露製」「葉形」「茎」と記されていたり、「玉露製」「葉物」「茎物」と記されていたり、「折部」「葉部」「玉部」と記されている茶があります。
「玉露製」「玉部」は玉露である。「茎物」「折部」は茶銘が白折、折鷹、友白髪とあることから碾茶の折(玉露の茎もある)です。では、「煎茶」の「葉形」「葉物」「葉部」とは、いかなる茶でしょうか?

(5)「茶臼」
これを探るカギは茶臼と仕上げ方法にあります。「葉売り」時代、抹茶は飲む人が自ら手で茶臼を廻して挽いていました。手挽きの茶臼は、現在宇治の抹茶問屋で使われている機械茶臼に比べて格段に小さい。
昔は宇治の抹茶問屋で「尺五」や「尺二」の機械茶臼を廻していたところもあったが、現在の機械茶臼は全て「尺一」です。「尺五」や「尺二」では臼が大きく重たすぎるので、挽ける抹茶が細かくなりすぎて挽き色が白くなり、ダマができやすい欠点があります。
「尺一」の臼は、直径が一尺一寸、約33センチあり、上臼の重さが20~25kgあります。これに対して、手挽き茶臼は直径が18cm~25cmで、重さは7kg~14kgです。ちなみに、二人挽きの手挽き茶臼の直径は23cm~25cmで重さは12kg~14kg、一人挽き茶臼の直径は18cm~21cmで重さは7kg~10kgです。
上臼が軽いので、葉脈や葉柄に近い分厚い碾茶は挽くことができません。この碾茶の葉でありながら、手挽き茶臼では挽くことのできない部分を煎茶用(せんじちゃよう)に使ったのが、「葉物」です。「葉売り」時代の碾茶の仕立ては何種類もの篩と簸だし箕を用い、何回も手撰をかけて丹念に仕立てられました。この「葉物」が碾茶荒茶からどれくらい出るのかは不明ですが、筆者の感じでは、4~6%くらいなのかなと推測しています。
 よって、「挽き売り」と「葉売り」の歩留りの差は、「泥粉」と「葉物」が生み出していると考えられます。現在の手摘みの碾茶の歩留りは55%~70%で、平均は65%くらいです。結論として、「葉売り」時代の歩留りは約50%であったと推論できます。

 

 

前のページに戻る / 一覧に戻る