お抹茶のすべて 6 【「抹茶の歴史その4」「抹茶と文化」】

読者の皆様、こんにちは。1月号では「宇治煎茶の主産地和束町はいかにして宇治碾茶の主産地になったか?」、2月号では「和束町碾茶の現状」について、3月号4月号5月号では「抹茶の歴史」の「栽培」「品種」「茶期」「摘採」「製造」「加工」「流通」「用途」「碾茶生産量」について書かせていただきました。6月号は「抹茶の歴史」その4「碾茶生産量」の続きと「抹茶文化」についてお話したいと思います。表1は前号と同じです。残りの紙面では、古い写真で昔の碾茶、抹茶を説明します。

表1(抹茶の歴史と文化)

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9の2、碾茶生産量の歴史
(1)鎌倉時代、室町時代の生産量
鎌倉時代、室町時代の碾茶生産量を推計できる史料はありません。

(2)安土桃山時代の生産量
ロドリーゲスの「日本教会史」の記述や宇治郷やその周辺の村々の茶園面積より、碾茶荒茶の生産量は40トンで碾茶生産量は20トンと推計することができる。

(3)江戸時代の生産量
徳川幕府により、茶園に覆いをかけることは宇治郷のみに許され、其外の地域の覆い下栽培は禁止された。宇治郷の茶園面積と反当たりの碾茶生産量から、江戸時代の碾茶荒茶の生産量は20トンから30トンで碾茶生産量は10トンから15トンと推計することができる。

(4)明治時代の生産量
全国的には明治16年(1883年)より、京都府では明治15年(1882年)より茶業統計が開始されている。これ以前には、明治5年(1872年)に京都府の「郡分茶製高取調書」に京都府挽き茶の生産量が記載されている。
これによれば明治5年の京都府碾茶生産量は約4トンで、この生産量は安土桃山時代以降現在まで約450年間で一番少ない生産量です。統計史料によれば、明治時代の生産量は4トンから50トンの生産量です。

(5)大正時代の生産量
大正時代は15年間と短いのですが、抹茶の歴史上大きな変革のなされた時代でした。碾茶の生産量は40トンから90トンです。

(6)昭和時代の生産量
戦前戦中、抹茶は軍需で生産量を増大しました。戦後は昭和60年頃より加工用の抹茶が増加し始めました。碾茶の生産量は100トンから500トンです。

(7)平成時代の生産量
加工用抹茶が増加し、抹茶が世界に伸びました。碾茶の生産量は600トンから2500トンです。

10、抹茶文化の歴史

(1)鎌倉、南北朝、室町時代
1191年に宗より帰国した栄西(1141~1215)は、中国の新しい喫茶法である抹茶法を我国に伝え、「喫茶養生記」という茶書を著しました。
栄西より茶の実を贈られた京都栂ノ尾高山寺の明恵上人は、栂ノ尾の深瀬三本木に茶園を拓き、栂ノ尾茶は14世紀に流行した闘茶の「本茶」と呼ばれる茶になりました。1217年、宇治五ケ庄で明恵上人は馬に乗って畑に入り馬の蹄の跡に茶の実を植えなさいと宇治の農民に茶の実の播き方を教えたという伝説があります。これが宇治茶の発祥とされています。
栄西の伝えた抹茶法は仏教とともに全国に広がって行きました。南北朝時代に著された「異制庭訓往来」では、「我が国の名山は京都の栂ノ尾を第一とし、仁和寺、醍醐、葉室、般若寺、神尾寺などがそれに次ぐ。さらに大和の室生、伊賀服部、伊勢河居、駿河清見、武蔵川越などが有名である。」と記され、茶が寺院を通じて全国に広まっているのが分かります。
禅院では茶礼という飲茶の礼法が定められました。南北朝時代から室町時代にかけて「茶の同異を知」り、茶の「本非」を飲み当てる「闘茶」(茶寄合)が流行りました。「闘茶」で本茶とされたのは栂ノ尾茶で、宇治茶などそれ以外の茶は非茶とされました。
室町幕府三代将軍足利義満は後に「宇治七名園」と呼ばれる茶園を開きました。また、日明貿易を開始し、大量の唐物が日本に持ち込まれました。金閣寺を建てた足利義満や銀閣寺を点てた足利義政の時代には中国渡来の茶器、美術を愛玩する唐物趣味の会所の茶が流行しました。
義政の同朋衆であった能阿弥は書院飾りの完成、台子飾りの方式の制定などを行い、書院茶の湯、書院の茶と呼ばれる茶文化が広まりました。村田珠光(1422年~1502年)は臨済宗大徳寺派の一休宗純より禅を学び、又能阿弥の会所の茶・書院の茶から能や連歌、茶や目利きを学びました。
道具賞翫の場であったそれまでの茶会を精神性の高い交流の場にしようと試み、能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求しました。珠光の茶は奈良茶湯とも呼ばれ、わび茶の祖とされています。

(2)戦国、安土桃山時代
わび茶(草庵の茶)はその後、堺の町衆である武野紹鴎に継がれ、その弟子の千利休(宗易)により完成されました。千利休は豊臣秀吉の茶頭として「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもち、細川三斎、古田織部など利休七哲と呼ばれる弟子を生みました。

(3)江戸時代
徳川時代になると武士の教養の一つとして茶道が盛んに行われ、わび茶から発展して武家茶道大名茶といわれる流派が生まれました。遠州流、石州流、有楽流、織部流、不昧流などが現在に伝わっています。江戸時代中期には町人階級が経済的に豊かになり、茶道人口が増えました。
これらの新しい人々を迎え入れたのが表千家裏千家武者小路千家の三千家を中心とする千家系の流派です。大勢の門弟を教え纏める為に家元制度が確立しました。また、新しい稽古方法として七事式が考案されました。
江戸末期になるとかたぐるしい茶の湯を嫌い、気軽に楽しめる茶を求める声が出てきました。売茶翁(高遊外)が行っていた煎茶を高め、漢詩の文人文化を取り入れて煎茶の作法を確立し、煎茶道が広まっていきました。

(4)明治、大正時代
明治維新によって封建制度が崩壊し、宇治の茶師はその特権を失い、碾茶の販売先も失いました。諸藩に庇護されていた茶道各流派も財政的に困難に陥るようになりました。文明開化の影響で、旧来の茶の湯に対する世人の関心は薄れ、茶道は衰退を余儀なくされました。
明治5年(1872年)の碾茶生産量は安土桃山以降の歴史上最低の4トンです。この同じ明治5年に京都府で、新設の女学校「女紅場」のカリキュラムに「茶道」が取り入れられました。その後、全国の女学校でも女性の教養の一つとして「茶道」が教えられます。
それまで、ほとんど男性のものであった茶道が女性のものになった始まりです。現在では茶道人口の90%以上が女性です。明治39年には岡倉天心がアメリカでThe Book of Tea「茶の本」を著して茶道を世界に紹介しました。また、大正12年に日本各地の茶業を視察した「ティー・アンド・コーヒー・トレイド・ジャーナル」のユーカースは、その後「オール・アバウト・ティー」を著し、日本茶と日本の茶文化を世界に紹介しました。


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