精揉機の魅力(1-1)

「2」永谷宗円

日本茶の歴史に於て、多くの書物は1738年(元文3年)に宇治田原湯屋谷の永谷宗円が創始した青製煎茶が日本の煎茶(せんちゃ)の元祖であると書いています。「宇治市史」には、「煎茶は、元文3年(1738)綴喜郡宇治田原村湯屋谷の人、永谷宗円の創始した現在日本の代表的な茶である。従来煎茶と称されていた茶は、摘採も製造も甚だしく粗雑なもので、今日の番茶にも劣るものであったが、この煎茶は、当時すでに精妙を極めていた抹茶の製法に則って作られたものである。
すなわち、①古葉を混えず若芽だけを摘み、②これを蒸籠で蒸し、③日乾や風乾することなく終始焙炉の上で揉みながら乾かしたもので、色青く、香味共によく、従来の煎茶とは雲泥のちがいであった。この製法を「青製」とも「宇治製」とも言っている。」と書かれています。宇治市史には、「従来煎茶と称されていた茶」があったと書いています。
「従来煎茶と称されていた茶」と永谷宗円の創始した煎茶の違いは、①新芽だけを摘む②蒸製③終始焙炉の上で揉むの三つを合わせたものと書いています。永谷宗円の三条件のうち①新芽だけを摘むと②蒸製は近隣の宇治では古より行われてきた碾茶の製茶方法と同じで永谷宗円の発明ではありません。
宇治田原湯屋谷は宇治から2里ほどしか離れていないので、永谷宗円は宇治の碾茶栽培、碾茶製造を充分知っていたと考えられます。③の終始焙炉の上で揉むの内、日干せずに焙炉で乾燥するのは碾茶製造で行われていたので、永谷宗円の創始は「焙炉の上の空中において両手で茶を揉む」という一点です。
「従来煎茶と称されていた茶」の揉み方は、床に蓆(むしろ)を敷いてその上で揉む床揉み(とこもみ)や板や竹に縄を巻いてその上で揉む盤揉み(いたもみ)や足で揉む足揉み(あしもみ)や永谷宗円が行なった手で揉む手揉み(てもみ)を行っていたのですが、永谷宗円は、床揉み、盤揉み、足揉みをしないで、空中での手揉みだけにしたと云う事です。
永谷宗円の子孫が1852年(嘉永5年)に著した「嘉木歴覧」には、「私たちの先祖は当地に古くから住み、茶園を開発して、上煎茶を始めて作りだしました。上煎茶の始祖といわれている家柄です。」と書かれ、「上煎茶(じょうせんじちゃ)の始祖」と云っています。けっして「煎茶(せんちゃ)の元祖」であるとは言っていません。永谷宗円はそれまであった「煎茶(せんじちゃ)」より高級な「上煎茶(じょうせんじちゃ)」の始祖であると云っています。また、永谷宗円の戒名の次には「和漢上煎茶梨蒸元祖」と書かれています。

すなわち、1852年(嘉永5年)頃までは、永谷宗円は古くからあった「従来の煎茶(せんじちゃ)」より高級な「上煎茶(じょうせんじちゃ)」を始めて創ったという認識であったものを、後の世の誰かが永谷宗円を「上煎茶(じょうせんじちゃ)の始祖」から「煎茶(せんちゃ)の元祖」に変化させたものと考えられます。この事に一番影響のあったのは山本山であろうと考えられます。


「3」青製(宇治製、永谷宗円の手揉手法)

永谷宗円は書いたものを残していませんし、嘉永5年に書かれた「嘉木歴覧」にも、永谷宗円の手揉手法についての記述は一切ありません。ですから、永谷宗円の手揉手法については、後の手揉手法より類推するしか仕方がない事になります。
永谷宗円が使用したであろう焙炉は、宇治の碾茶焙炉かそれを真似て造られた焙炉です。
この当時の焙炉は茶を揉み乾かす道具では無くて、茶を乾かす道具でした。焙炉が揉み乾かす道具になるのは、焙炉に使われる助炭が紙助炭から木枠の助炭に変わり、竹の渡し棒が鉄の渡し棒に変わってからです。
永谷宗円の時代の焙炉は竹の渡し棒の上に竹の網代を置き、其の上に和紙の焙炉紙を載せただけですから、焙炉は完全に乾燥する道具で茶を揉む為の道具ではありません。永谷宗円の手揉手法は、露切(つゆきり、葉干し、茶切)と空中での揉切だけだったと考えられます。
両手を空中で合わせて揉むだけですから、茶葉に強い力を掛けることが出来ず、非常に長い時間がかかったものと思われます。また、仕上げ揉みの工程も揉切だったので、今のような真直ぐな針のような形にはならず、やや太めで曲がった形の茶になったものと考えられます。強い力で揉むことが出来ないので茶の細胞壁を壊すことが少ないことから、渋みの出にくい穏やかな味の茶になったものと考えられます。また、強く締め過ぎないので香りは引き出しやすかったものと思われます。


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