焙じ茶の研究①

(1)インターネット

まず手始めにインターネットで「焙じ茶、起源」で検索すると、1ページ目に「昭和4年(1929年)、昭和恐慌の時代にお茶が売れなくて古茶(ひねちゃ)在庫で困った京都の茶商が、飲めなくなった古い茶を京都大学の研究所に持ち込み、茶の再生をお願いした。ある先生が生徒に湿気ていた古茶を鍋で乾燥するように命じたところ、煙の出るまで焦がしてしまいました。飲んで見ると思いもよらぬ香ばしい香りに驚き、茶商に持ち込み焙じ茶が商品化されました。」と出てきました。
お茶の歴史を何も知らなければすぐに信じてしまいそうですが、「昭和4年が焙じ茶の起源」というのは大ウソです。何故、すぐにウソだと言えるのかと云うと、「升半茶店史資料編」という本に名古屋の升半茶店の歴代の定価表が掲載されており、その升半の昭和2年度の定価表に「焙じ茶」が載っているのを前から知っていたからです。名古屋のお茶屋さんが昭和2年に販売している焙じ茶という商品を、昭和4年に京都の茶商と京都大学の先生が商品化したというおかしな話はありません。
インターネットにはこの外「昭和4年に」とか「昭和の初め」とか同じ起源説が沢山出てきます。インターネットの怖いところは一つのまことしやかな論説がでると、その後に自分で何も調べないでその説を引用して、ウソの情報がどんどん広がってしまう事です。


(2)引札と定価表

焙じ茶の起源を江戸以降の「引札」や「定価表」で調べて見ましょう。「引札」や「定価表」に「焙じ茶」が載っていれば、「焙じ茶」が商品として流通していたことの証明になります。
現在、全国で一番多くの「引札」や茶の「定価表」を収集しているのは宇治市歴史資料館だと思います。宇治市歴史資料館が平成27年(2015年)に刊行した「宇治茶、トップブランドの成立と展開」と令和2年(2020年)に刊行した「収蔵資料調査報告書22…宇治茶の引き札」には多くの「引札」や「定価表」が掲載されています。それらの「引札」と宇治市歴史資料館元館長の坂本さんより頂いた資料を調べます。


(3)江戸時代の引札

江戸時代の多くの引札に載っている現在でいう茶種は「濃茶」「薄茶」「煎茶(せんじちゃ)」「粉茶」「番茶」「屑(くず)」の6種類です。
「玉露」が初めて出て来るのは嘉永6年(1853年)の引札で、玉露創始から20年以内に商品として販売されたのが分かります。江戸時代の引札には「焙じ茶」は出てきません。江戸時代には「焙じ茶」はなかったか、商品として販売されていなかった事が分かります。
現在「焙じ茶」を「番茶」「お番茶」と呼ぶ地方がありますので、江戸時代の「番茶」も「焙じ茶」ではないかと疑うことは出来ますが、引札には「日向番茶」と書かれており「焙じ茶」ではなく宮崎地方の下級のお茶と判断するのが正しいようです。
上田秋成が寛政6年(1794年)に刊行した「清風瑣言」には、「久蔵…茶を貯ふるに、久蔵の品は、今年の新茶を相半にして、再び密封すべし。茶、霖雨、梅天には、壺中に在りても湿を感ず。映晴を待て、急に焙炉に乾すべし。焙炉の火は温かるべし。是を文火(とろび)と云う。火勢猛なれば葉焦れて茶韻を脱す。」という記述があります。久蔵は古茶(ひねちゃ)の事です。
古茶は新茶と半合(はんごう=二分の一づつ合する)して貯蔵する。焙炉で文火(とろび)で乾燥する。強火だと茶の葉が焦げて品質を落とす。と茶の葉を焙じる事はなかったようです。


(4)明治時代の定価表

次に明治時代の「引札」や「定価表」を調べます。明治時代の茶種は「濃茶」薄茶」「玉露」「煎茶」「葉物」「折物」「真(じん)」「粉」「珠(たま)」「紅茶」の10種類にふえますが、「焙じ茶」の茶名は現れません。「番茶」の名前は消えてしまいます。明治時代でも「焙じ茶」はなかったか、お茶屋で販売されていなかった事が分かります。


(5)大正4年(1915年)大阪の城南園茶舗の定価表

次に大正時代を調べます。定価表に初めて「焙じ茶」が現れるのは、大正四年(1915年)度五月改定の年記がある大阪市南区の城南園茶舗の定価表です。名古屋の升半茶店の12年前です。城南園の定価表にはただの「焙じ茶」ではなくて、「東京流ホージ晩茶」と書かれています。
この「東京流」という言葉は、この「ホージ茶」は大阪ではまだ流行っていないけれど、東京の方で流行っていますよと云う事でしょうか?「東京流」の焙じ方があったのでしょうか?値段は「青柳」と「川柳」の間の値段がついています。一番高い煎茶「池之尾」が一斤で1円20銭、中ほどの煎茶「正喜撰」が80銭、一番安い煎茶「山ぶき」が60銭、一番高い青柳が56銭、一番安い青柳が30銭、それで「東京流ホージ茶」が28銭、一番高い川柳が24銭、一番安い川柳が12銭になっています。少ない資料からの調査なので大正4年(1915年)が一番古いとは断定できませんが、大正4年(1915年)にお茶屋で焙じ茶が販売されていたことが判明しました。

引札、定価表その1  大正4年(1915年)、城南園茶舗の「精選御茶銘表」
*資料画像をクリックすると大きく表示します。


(6)茎焙じ茶の始まり

それでは焙じ茶は何時ごろから飲まれていたのかを今度は書物で調べて見たいと思います。一冊目は米沢喜六が昭和51年に発刊した「加賀茶業の流れ」という本です。その134ページに「茎の焙茶出現…この時期の定価表には焙じ茶と名のつくものは見当たらないが、明治35年頃林屋新兵衛が荒茶精選からの出物の内で茎の使用法を研究した。茎のままでは味が薄く出が少ないので、焙じて売り出すことを考えた。これが今日の「いり茶」のはじまりである。」と書いてあります。
この茎の焙じ茶が現在の「加賀棒茶」の始まりです。茎焙じ茶の元祖は明治35年(1902年)の林屋新兵衛である事は判明しました。青柳や川柳を焙じた焙じ茶の始まりは何時の事でしょうか?


 

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