焙じ茶の研究②

(7)宇治かおる問題

二冊目は昭和50年に東京茶協の初代組合長であった吉浜代作が書いた「茶とともに」です。その88ページに「宇治かおる問題」があります。吉浜は「この問題は、大正13年(1924年)の春に、森永製菓が発売元となり、京都府下上狛町(かみこま)の七条七之助氏発売の焙じ茶を包装販売せんと計画し、数千店の菓子販売店において販売する一方、茶商店に対しては茶問屋を元売り店に指定して販売を開始せんとした。…当時東京市内の茶小売店においては焙じ茶の販売を行う店は極めて少数である。」「私は大正の初期に焙じ茶販売は有利である。その理由は焙じ茶原料は最低価格にて求め得られる。特に輸出商社より選別される煎茶棒のごとき用途なく捨て去られている。」輸出商社で選別される煎茶棒は用途なく捨てられています。
「明治以来各家庭においては自宅で焙じ茶を作って飲用している。またこの焙じ茶用器も年末市内小売店において景品として配布している。その器具は木材のまげものへ日本紙をはめ込むちょうどホタル入れの形をした手のついた極めて簡単な道具である。」と書かれています。
大正13年当時の東京の茶小売店では焙じ茶を販売している店は極めて少数でした。そこへ大手菓子メーカーの森永製菓が上狛町の山城製茶(七条七之助)と提携して焙じ茶の包装販売を企画します。日本における茶包装販売の魁です。東京は大混乱しました。またこれが動機となり、焙じ茶の販売が全国的に盛んになりました。
「宇治かおる問題」は焙じ茶を全国に広める大事件でした。東京では明治以来各家庭において焙じ茶を作って飲用している事が分かりました。焙じ茶はお茶屋が最終製品として売るものでは無く、消費者がお茶屋で焙じ茶の原料を購入して、各家庭で自らつくるものだった事が分かります。また、焙じ茶用の器具はお茶屋が景品として配っていた事が分かります。これにより、明治以降に焙じ茶が飲まれ出したのは判明しました。誰が発明者なのかは分かりません。また、明治時代の京都や大阪の焙じ茶についての文章もまだお目にかかったことがないので、明治の東京の庶民が焙じ茶の発明者だとは断定できません。次は東京の各家庭では、どんなお茶を焙じ茶にしていたのかを調べます。


 

(8)川柳

明治時代に東京の消費者が自分で焙じ茶を作って飲んでいたことが分かりましたが、その焙じ茶の原料は主に「川柳」と呼ばれたお茶でした。現在ではほとんど見られなくなった茶種の「川柳」とは何なのかを調べて見たいと思います。現在、日本茶業中央会の「名称及び定義」で「川柳」は、「7、番茶又は川柳」「新芽が伸びて硬くなった茶葉や古葉、茎などを原料として製造されたもの及び茶期(一番茶、二番茶、三番茶など)との間に摘採した茶葉を製造したもの」となっています。定義の前半部「新芽が伸びて硬くなった茶葉や古葉、茎などを原料として製造されたもの」の内、古葉を除いた部分が川柳です。川柳には古葉は入っていません。後半部分の「茶期(一番茶、二番茶、三番茶など)との間に摘採した茶葉を製造したもの」が「番茶」で所謂「刈り直し」です。手摘みの時代(大正以前)には「刈り直し」はありません。「刈り直し」とは、茶刈バサミが開発された大正時代以降、一番茶をハサミ刈した後に、刈り残した裾の葉と遅れ芽と古葉を刈って二番茶の台を作る作業です。この裾の葉と遅れ芽と古葉を製茶したものが「刈り直し」「親子」「親子番」です。この内遅れ芽だけを刈って造るのが「芽番」です。明治時代末までは全て手摘みだったので、現在主に焙じ原料に使用されている「刈り直し」はありません。次は江戸時代の「川柳」について調べます。


(9)江戸時代の川柳

引札その2は、文政6年(1823年)、江戸の都竜軒山本の引札です。価格は一段目左が高価で右へ行くほど低価になります。一段目は「御濃茶」と「御薄茶」です。二段目最初に「枇杷茶」と「桑茶」がありますが、他の引札には見られませんので「枇杷茶」「桑茶」を扱うのは特殊な例と思われます。
二段目その次に「濃茶薄茶精選御煎茶」があります。他の引札では「濃茶園精選御煎茶」と書かれているものもあります。初めて引札を見る人は、濃茶園や薄茶園の二番茶を煎茶に製造したもの思ってしまいますが、「濃茶薄茶精選御煎茶」は今で言う煎茶(せんちゃ)ではありません。これは濃茶や薄茶、今で言う碾茶の出物(でもの)、折物(おれもの)です。何で碾茶なのに煎茶と書いているかと云うと、江戸時代には現在の茶種別と云う考え方が無かったようです。
お茶は茶筅で点てて飲む抹茶の原料である「濃茶」「薄茶」と、急須や土瓶や釜で煎じて飲む「煎茶」の二種類という考え方です。よって江戸時代の「煎茶」は「せんちゃ」と読むのではなく「せんじちゃ」と読む方が誤った理解を防げます。製造は碾茶ですが使用法が煎じて飲む方法なので「御煎茶(おんせんじちゃ)」です。二段目中ほどから三段目が「宇治信楽御煎茶(うじしがらきおんせんじちゃ)」です。
これは今で言う「煎茶(せんちゃ)」が主なものです。煎茶(せんじちゃ)の茶銘は35種類あり、下位から3番目の茶銘が「川柳」です。江戸時代、「川柳」は価格の低い煎茶の銘だった事が分かります。明治以降「煎茶(せんちゃ)」と区別される「川柳」「青柳」も江戸時代には同じ「煎茶(せんじちゃ)」として書かれています。

引札、定価表その2  文政6年(1823年)都竜軒山本引札
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(10)明治時代の川柳

定価表その3は明治42年(1909年)、山城国宇治郡宇治村木幡の松北園の定価表です。この定価表にも「ほうじ茶」はありません。松北園の定価表でも判るように、明治の末期まで「川柳」「青柳」は煎茶の最低価格のお茶でした。定価表その1の大正4年(1915年)の城南園茶舗の定価表では「青柳」「川柳」は「煎茶」の茶銘ではなく、「青柳製」、「川柳製」と一つの茶種になっている事が分かります。明治の末から大正の初めに「青柳」「川柳」は「煎茶」の茶銘から茶種へと独立していったと考えられます。

引札、定価表その3、明治42年(1909年)、松北園の定価表

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