お抹茶のすべて 6-3 【「抹茶の歴史その4」「抹茶と文化」】

宇治茶写真その5
「碾茶の焙炉場」(宇治木幡、松北)……焙炉場(ほいろば)、焙炉師(ほいろし)、碾茶ホイロ、薄葉(うすは)、焙炉小屋(ほいろごや),さらえ、ねん、助炭、練りホイロ、

宇治郡宇治村木幡の松北園の碾茶焙炉場です。碾茶の焙炉場は残念ながら、現在日本に残っていません。
碾茶焙炉場は小屋それ自体が乾燥室になるため、揉みの焙炉場に比べて天井が低く、天井にも壁土が塗られ土天(どてん)と言われていました。
入口の戸も窓も皆締め切り、内部の温度は60度以上になったそうです。揉みの焙炉場は裸で作業する焙炉師が多かったのですが、碾茶焙炉場では綿の入った半纏を着たそうです。
手揉みの焙炉が残っているのに、碾茶焙炉が残っていない理由は、揉み茶が手製から機械製に変わって、茶の品質が悪くなったのに対して、碾茶は手製碾茶から堀井式碾茶機械に変わって、その品質が非常に向上したためです。ですから、手揉み技術保存会はありますが、手製碾茶技術保存会は存在しません。


宇治茶写真その6
「手揉み製茶」(宇治小倉、北川)……焙炉場(ほいろば)、ホイロ、手揉み、揉み切り、でんぐり、焙炉師(ほいろし)、助炭

久世郡小倉村伊勢田の北川半兵衛氏の焙炉場風景です。
ここに写っている揉み焙炉用助炭(じょたん)の説明です。助炭とはもともと炭火を長持ちさせるために作られた道具です。
箱火鉢や長火鉢に合わせて作られ、四角の木枠の五面に和紙を張ったもので、炭に灰を被せ、助炭を被せることによって炭火を長持ちさせました。
1738年に青製(宇治製)を発明した永谷宗円は、茶を焙炉の上で揉みましたが、使用した焙炉は碾茶用焙炉で揉み茶用助炭は発明されていませんでした。碾茶は揉むという工程が無いので、碾茶焙炉は、炉に丸竹を架し、竹網を乗せ、その上に炉紙を敷いたものでした。ですから、新芽を炉紙に押しつけ強く揉む現在の横まくりやでんぐりなどの動作は無く、葉ぶるい、揉み切りで茶を手で揉みながら乾燥しました。
茶の製造に助炭が登場するのは安政年間(1854年~1860年)です。炉の形の木枠の底に和紙を張ったもので、炉の上に鉄弓(てっきゅう)を渡し、その上に助炭を載せることによって、助炭の上で強く揉むことが可能になりました。
上の写真は半機(はんき)時代の手揉みです。焙炉師は皆揉み切りとでんぐりの動作をしています。
大正、昭和初期、京都では粗揉機は普及しましたが、山城茶(宇治茶)の製造に合う揉捻機、中揉機、精揉機が少なく、粗揉機の後は焙炉で手揉みするという半機械製製茶が20年以上続きました。京都に初めて精揉機が導入されたのは大正3年(1914年)ですが、10年後の大正12年(1923年)でも、全機(全機械製)が18%、半機が40%、手揉みが42%です。その10年後の昭和8年(1933年)においても、全機が45%、半機が48%、手揉みが7%と製茶の55%が焙炉を使った製造でした。
しかし、戦後(1945年以降)は半機製、手揉み製はほとんど姿を消しています。京都において、助炭が第一線で活躍したのは約90年間だったということになります。


宇治茶写真その7 
「堀井式碾茶炉」(宇治小倉、北川)……碾茶炉、焙炉場(ほいろば)、焙炉、助炭、揚げ練、しな撰(しなより)、缶櫃、茶箱、茶撰(ちゃより)、撰娘(よりこ)、

久世郡小倉村伊勢田の北川半兵衛氏の堀井式碾茶炉です。
大正13年(1924年)に宇治の堀井長次郎が作った時は一段式であったが、その後二段式、三段式などがつくられた。
この当時は、後乾燥機が無く、練り乾燥は炉の横に棚があり、その棚に助炭を入れて乾燥した。写真は女性がシナ撰り(しなより)をしているところです。
碾茶炉を出た薄葉を手撰りしています。それを助炭に拡げて練乾燥をします。戦後の碾茶炉では一段目を出た後にベルトコンベアがあり、その両脇に女性が座ってシナ撰りをしていた時代もあります。
現在では、生芽撰りも蒸芽撰りもシナ撰りも荒茶撰りもしている工場はありません。


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