お抹茶のすべて 9-3 【「抹茶問屋の仕事」その3】

宇治茶写真その2 
「下骨(したぼね)」……下骨、覆い小屋、ナル、コロ、通り、街道

宇治郡宇治村木幡の下骨風景です。西暦1200年頃、栄西が中国宋から伝えた「抹茶法」で使われた抹茶原料の碾茶は露地栽培でした。覆い下栽培はまだ発明されていません。そのため、当時の抹茶の色は白く、味は苦渋い、まさしく「良薬は口に苦し」のものでした。
覆い下栽培を「何時どこで誰が発明した」のかが分かる歴史資料はありませんが、ロドリーゲスの日本教会史」によれば、宇治では天正年間には覆い下栽培が一般化されていたのが分かります。
一反の茶園の下骨には、ナルと呼ばれる檜の杭丸太が240本、通り(街道)の太い竹が50本、コロと呼ばれる細い竹が150本が使われます。そのほか下骨に使う道具は、ドンツキ(ナルを立てるため地面に穴をあける道具)、寸法ひも(伸縮性のないシュロ縄に赤い布で印を結んだもの)、竹竿(けん竿)、藁縄(太縄と細縄)、古竹(タレシバキ)、小型のカマなどです。棚の高さは自分の腕をいっぱい上に揚げた高さになるので、2mから2.1m位になります。ナル(杭)とナルの間隔は九尺(約2.7m)です。この九尺四方を「ひとま」と言います。


宇治茶写真その3 
「簀上げ」(宇治)……簀上げ、下骨、簀、葦簀(よしず)、覆下(おいした)、通り、合いナル、コロ

大正時代、宇治橋のすぐ下流、川東の覆い下園の風景です。下骨が組まれ、簀が上がった時期の写真です。5本の煙突は日本レーヨン(後のユニチカ)宇治工場です。
下骨が終わると「簀上げ」を行います。葦簀は一間(ひとま)に二枚上げます。雑種時代の宇治の一般のお茶は、4月に入ると「下骨」4月5日頃「簀上げ」、4月15日頃「簀広げ」、4月末頃「藁拭き」、5月10日ころ「初摘み」されました。品種が栽培されるようになった戦後の出品茶は、一般のお茶より一週間ほど早く、3月25日から28日頃「簀広げ」、4月15日から17日頃「藁拭き」、4月30日から5月初め「初摘み」と連休前に製造されることが多くなりました。


宇治茶写真その4  
「藁振り」(宇治市五ケ庄)……藁振り、本ず、二重、葦簀、二重拭き、

平成26年(2014年)4月18日、宇治市五ケ庄の渡辺氏の藁振り風景です。葦簀と稲藁で被覆することを「二重(にじゅう)」と言い、葦簀と稲藁でできた被覆を「本簀(ほんず)」と言います。
昭和30年代まで宇治の被覆はすべて「本ズ」だったのですが、昭和40年の後半より寒冷紗による2段被覆が増えてきました。
平成28年現在では、棚被覆の内90%以上が寒冷紗で、こもや葦簀を使用したものは10%以下で、そのほとんどが宇治市内にあります。葦簀に使う葦は、昔は巨椋池(おぐらいけ)や淀川中流の葦を使っていましたが、現在では、琵琶湖産の葦を使っています。
一反の茶園の藁振りには、一反の田んぼからとれた稲藁が必要です。ですから、碾茶、玉露農家は田圃も耕していました。
宇治には「簀下十日、藁下十日」という言葉があります。この言葉の意味は覆い下のお茶は、「簀下十日、藁下十日」以降に初摘みを行うという意味で、「簀下十日、藁下十日」の二十日間が理想の覆い下期間であるとか、被覆期間二十日目が摘採適期であるとか、被覆期間二十日間の碾茶や玉露が最高の品質であるという意味ではありません。
宇治茶生産者が発行する宇治茶生産記録簿(生産履歴)によると、実際の棚被覆の碾茶の覆い下期間は平均36日間で、最短の被覆期間でも24日間でした。被覆期間二十日間は現実にはありません。
直被覆一番茶の被覆期間でも平均は25日間です。しかし、今までの茶業書やテキストには、「本簾被覆の場合、被覆開始から20日頃が摘採適期である。」と現実と違うことが書かれていることが非常に多い。
この理由は、書かれた学者が実際の棚覆いの栽培製造経験が無く、「簀下十日、藁下十日」と言う意味を間違って理解されているからだと思います。


宇治茶写真その16 
「茶撰り場」(宇治木幡、林屋)……茶撰場、茶撰り、撰り娘(よりこ)、折敷、撰り箱、まなげ撰り、まなげ箸、ぼて、茶撰り台、

宇治郡宇治村木幡の林屋製茶合名会社の茶撰り場風景です。精撰場で仕上げられた茶は、茶撰り場の撰り娘(よりこ)の手で手撰りされます。写真はマナゲ箸によるマナゲ撰りです。折敷や小さいボテに茶を広げ、箸で黄葉や茎をマナゲています。
明治時代、全国に宇治茶を出荷している宇治茶問屋の多くは京都市、紀伊郡(今の京都市伏見区)、宇治郡宇治村(今の宇治市木幡)、久世郡宇治町(今の宇治市宇治)久世郡小倉村(今の宇治市小倉)にありました。
そのほとんどの問屋は自園を持ち、茶農家兼茶問屋でした。綴喜郡、相楽郡の多くのお茶屋は、茶輸出業者か、宇治や京都の宇治茶問屋に産地の荒茶や一撰り(いちより)を斡旋販売する産地業者でした。「一撰り」とは、蔓きりした荒茶を手撰りした茶のことで、荒茶と仕上げ茶の中間品のことです。


宇治茶写真その17  
「服部式電気選別機」(宇治伊勢田、能勢)……電気選別機、でんせん、茶撰り機、

久世郡小倉村伊勢田の能勢孫市本店の初代「服部式電気選別機」です。
お茶撰りは昔から女性の仕事で、撰り娘(よりこ)さんが手で茶の茎や黄葉を撰っていました。その女性の仕事を奪うきっかけとなったのが、昭和10年(1935年)に久世郡宇治町白川の服部善一が発明した「清電的茶葉選別装置」略して「電撰(でんせん)」でした。
茶葉と茎との帯電差を利用した機械で、手作業のように完全ではありませんが能率的に茶撰りができるようになりました。それまで手撰りで撰られた茎はほぼ完全に茎だけになりましたが、電撰で撰った茎には甚粉や一葉目の光った細かい茶が多く混じるようになりました。
茎茶(雁音)が非常に美味しくなったため、それまであまり販売されずに焙じ茶の原料になっていた茎茶が小売店で良く売れるようになりました。
昭和37年(1962年)に服部は「色彩選別機」も開発しますが、最初の「色彩選別機」は性能が悪かったように思います。
私が茶業に入った昭和48年(1973年)、わが社にも「電撰」と「色彩選別機」がありましたが、「色彩選別機」は使用されずに埃をかぶっていました。
事務所の2階の茶撰り場では昔ながらに近所の女性が数人茶撰りをしていました。新しい性能の良い「電子色彩選別機」が開発されて、わが社の茶撰りが終わりを告げたのは昭和50年代の後半だったと思います。

 

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